お知らせ
読者のみなさん、6月以降更新が途切れて申し訳ありませんでした。
現在、代表が病気のため執務不可能な状態に陥っています。
代表と私の二人三脚体制であったために、本会は活動休止のやむなきに至っています。
活動を再開できる状態になりましたら、本会のブログも更新を再開します。
事務長
従来型は束縛である
夕方、複合商業施設にあるベンチに座り、アイスコーヒーを飲みながら青少年の服装を眺めていました。
中学校1年生のサッカー部員たちは、スラムダンクのようなゆるゆるだぶだぶを着用しており、スラムダンクの時代から30年近くファッションが変化していないことに驚かされます。
スラムダンクの時代と言えば、ソ連が崩壊し、アメリカのクリントン大統領が北朝鮮の核に対して「対話と圧力」政策を始めた頃ですよね。
校内暴力が印象に残る私としては、中学生・高校生たちがゆるゆるだぶだぶの私服を着ると、かつての中学生・高校生たちが制服や体操着をゆるゆるだぶだぶに改造し、力を誇示した景色を思い出してしまいます。
しかし、同席した友人は、服をゆるゆるだぶだぶにする目的が当時とは違うと言います。
1990年代以降のゆるゆるだぶだぶは、力を誇示することが目的ではなく、型にはまった従来型ファッションを崩すことが目的であると言います。
キラキラネームも、型にはまった従来型の命名を崩すことが目的でしょうね。
もし私にこどもが生まれるとしたら、昭和後期の従来型ファッションを崩すことがかっこいいとする流行が終わってからの時代にしたいものです。
その後通過した大学生たちは、一人もゆるゆるだぶだぶを着用していませんでした。
むしろ窮屈そうでした。
13歳と20歳では、どちらが正確に流行を反映しているのでしょうか。
こどもでも大人でもない青年たち
日本大学アメリカンフットボール部の父母会が被害選手に謝罪したそうですね。
被害選手は一切出て来ず、被害選手の父親ばかりが出て来て監督の責任を追及している様に違和感を抱いてはいたのですが。
加害選手が20歳で成人なのですから、被害選手も恐らく成人なのでしょうね。
私の大学の同窓も、「最近の大学の入学式は、保護者同伴だ」と驚いていました。
しかし、驚いてはいても、批判はしていません。
疑問を感じつつも、「これも時代の流れかな」と受け入れて、自分のこどもも今風の価値・規範で育ててしまっているのです。
私の「若い」頃は、高校生と大学生の間にこどもと大人の一線が引かれていたと感じます。
一方でこの現代では、大学生と社会人との間にこどもと大人の一線が引かれていると感じます。
法的な成人ではなく、社会的な成人の時期が4年先送りされている感じです。
そうして、その一方で18歳選挙権に反対論はありません。
社会的引きこもりが専門の、精神科医の斎藤環さんなどは、「現在の青年たちの実態から言えば、成人年齢は18歳に引き下げるのではなく25歳に引き上げるのが相応しい」と述べていますが、その意見に対する共感はほとんどありません。
「18歳にもなって成人できないとすれば、親の育て方が悪い」とする意見が主流です。
現代っ子は甘やかされていると思います。
こどもの権利条約の影響で、早くから意見表明権が認められ、つまり意思能力が認められ、その一方で責任問題になったら親が出て来るのです。
「こどもに権利はない。あるのは周りの大人の養育義務だけだ」とする古い価値観からの脱却を目指すがあまり、現在のこどもがむしろ社会的には晩生になっているという現実に封印しようとするから、こういう矛盾が起きるのだと思います。
座れるようになったら反抗期
朝日新聞5月21日付に、「ストリートダンス躍動」「不良っぽさ離れ、いま学校や舞台でも」という記事が掲載されていました。
漫画家の井上三太さんが、「洋の東西を問わず、人は暴力的な作品に惹かれる」「人の本質には、暴力性と仲間を求める気持の両面がある」とストリートダンスの魅力を語っています。
「暴力」という言葉が2回も出ています。
今世紀に入った頃、乳母車に乗った赤ちゃんが、だぼだぼのズボンを穿いて、喧嘩用の鎖を巻いているのを見掛けたことがあります。
赤ちゃんに喧嘩ができるはずがないのに、あの母親の趣味は何だったのでしょう。
恐らく、校内暴力世代の、不良に対する緩い共感なのではないかという気がします。
今世紀初めに、校内暴力世代は30代半ばですから、赤ちゃんがいるのは自然な時期だと思います。
中学生時代、自分は表立って教員に反抗できないけれども、高校進学の可能性を捨てて教員に反抗していた不良に内心拍手を送っていたと、
自分のこども時代には、大人に従順な、いい子をモデルにした文化しかなかったけれども、この現代は不良をモデルにして自己主張することができるわけだから、大いに不良っぽく肩で風を切れ、と。
私はそれをいいとは思いません。
喧嘩をするとか、大人に従わないとか、体が大きくなれば自然にできるようになります。
むしろ、人間の成長は不可逆ですから、体が大きくなれば夢多きこども時代には二度と戻れなくなっています。
生まれてから思春期を迎えるまでの凡そ12年間は、可愛いとか、素直とか、純真無垢だとか言ったこども期独自の価値を大事にしたいです。
ストリート文化が、中学生・高校生・大学生の若者文化に収まるのであれば何も言いません。
ベトナム戦争期のヒッピー文化と同じものになるわけですから。
しかし、ストリート文化には、小学生より下の年代の夢多きこども時代を侵食する特徴があり、私は許せないな、と思っています。
福島市鼓笛隊パレード2018
行って来ました。
3年前の夏、福島市野田児童センターで「ガキ大将行進曲」を見てくれた3年生たちが、6年生になり、今年出場したからです。
あの時のこどもたちがいました。
まるで別人になっていました。
「福島の学校の先生にならないんですか」と言われました。
福島県は、もともと人口が減っているため、小学校で臨時的任用の口が出ることはあまりありません。
臨時的任用の口が出るとしたら、中学校の技術や美術が多いと思います。
また、正規採用試験は長いこと新採用なら45歳まで、他県で正規採用された経験があれば50歳まで、という年齢制限を維持して来ました。
今年、何を思ったか年齢制限を緩和しています。
新採用なら50歳まで、他県で正規採用された経験があれば59歳まで、しかも水泳実技や鉄棒実技は廃止、残ったのはピアノ実技と陸上競技・マット運動程度のようです。
私が今回の制限緩和の恩恵に浴することはありません。
福島県教育委員会から見たら、1966年生まれは人生70年の旧世代なのでしょうか。
さて、私が1970年代に通った首都圏の小学校では、4年生から6年生まで鼓笛隊が必修でした。
運動会が近付くと、放課後は来る日も来る日も鼓笛隊の練習になりました。
運動会当日は、午後一番の鼓笛隊ドリルだけではなく、入場も退場も鼓笛隊が伴奏しました。
この時期は、新住民しかいない多摩ニュータウンの夏祭りにも、地元の小学校が鼓笛隊を出したようです。
それだけ盛んだったのです。
しかし私の出身校では、みっちり鼓笛隊を実施したのは1985年の運動会までで、1986年の運動会では鼓笛隊ドリルは廃止、鼓笛隊は入場の伴奏をしただけでした。
1987年の運動会では、鼓笛隊そのものをやめていました。
1990年代に鼓笛隊を続けた小学校は、自治体全体で鼓笛隊に取り組んでいる地域だったと思われます。
秋の交通安全パレードなどで、全小学校が学校ごとにコスチュームの色を変えて一斉に地域を練り歩いた、という話をよく聞きました。
しかし、それも20世紀のうち。
少子化で6年生が減ったせいなのか、楽器の音に苦情が出るようになったせいなのか、鼓笛隊をする時間があるのならコンピューターや英語の授業をしたいせいなのか分かりませんが、今世紀に入ってからほとんどの学校・自治体で鼓笛隊をやめて行ったと思われます。
鼓笛隊というものが、1960~70年代の流行りであったことが分かります。
本会が推奨している児童映画と同時期なのですよね。
福島県の教育は、鼓笛隊だけではなく清掃指導も称賛に値します。
理科室なら理科室の清掃当番(学級別ではなく、通学班のように1~6年生混合)が交替する時、前任の班は隊列を成して退場。後任の班は同じく隊列を成して入場。つま先を一線に揃えます。徴兵制度があった頃の西ドイツは、新兵訓練でつま先を一線に揃えさせたと言います。
福島県の小学校の特徴として、20世紀的な集団・規律重視があると思います。
全国の教育現場は福島の教育現場に学べ、ですね。
過信
昨日、テレビで横浜市の小中一貫教育の実践が紹介されていました。
小学生の指導に当たる中学校3年生男子は、すっかり声が変わってまるで極端に若い男性教員がいるかのようでした。
昨年度の勤務校の教頭は、「小学生を指導することで、中学生にとっても勉強になる」と仰っていました。
確かに、昔からあった学生教育ボランティアの参加資格を、大学生のみから中学生にも拡大したようなものだと考えれば、それも言えるかもしれません。
しかし、小学生と中学生を同じ教育対象と見做し、同じ施設で生活を共にさせることには反対します。
教育課程論の問題ではなく、こどもの実態論の問題としてです。
思春期前と思春期の発達特性の違いから、教員が知らないところで、ヤンキー文化の伝授や、性的お遊びがまかり通る可能性があります。
学校がこどもの実態まで統制できるのであれば、こどもの実態に合わせて学校教育制度を作り変えるのではなく、従来の学校教育制度に合わせてこどもを作り変えることが可能になるはずです。
元大学生と元小学生
朝日新聞be4月28日付けの「サザエさんをさがして」で、「最近のこどもはかくれんぼをしない」という記事が掲載されています。
関西大学人間健康学部教授の杉本厚夫さんによれば、かくれんぼという遊びにはシカトの要素があり、現代のこどもの孤独感を苛むのだそうです。
記者の佐藤陽さんは、私と同じ51歳。
慶應義塾大学日吉キャンパスで、大学生たちとスマホを使ったかくれんぼをしてみて、「自分のこどもくらいの年齢の学生と一緒に走り回った」と書いています。
情けないですね。
私は勤務校で現役小学生と一緒に走り回っており、現役小学生を目の前にするとそこに友達を見てしまいます。
男性教員の更衣室に置いてあるドッジボールを見ると、「このボールの向こうに現役小学生たちとの友情がある」くらいに感じてしまします。
その話を友人にしたら、「〇さん(←私の実名)の身長がどんどん小さくなっていくのですね」と笑われました。
それより情けないことが、この記者がご自分のことを「昭和記者」と自嘲して「時代の流れだと思う」と書いていること。
昭和(特に後期)をリアルタイムで経験している者が、現代のこどもに昭和(特に後期)を伝えて行こうとする意思がないのですよね。
ご自分のことを「老兵は消えゆくのみ」くらいに思っているのではないでしょうか。
かくれんぼが消え始めたのが、1995年前後だそうです。
「1990年代半ば、昭和後期以来のこども文化の系譜が途絶えた」とする仮説は、また一つ補強されたと思います。