河原和枝『日常からの文化社会学-私らしさの神話-』世界思想社2005年を読みました
基本はゲオルク・ジンメルなのですね。
ファッションは「常に過去と現在の分水界に立ち」「他の現象には稀にしかないほどに、強烈に現在の感情を与える。」
今のこどもたちは、分水界の向こうの過去を知りません。
現在の感情を抱くことに、優越や安心を感じるようです。
歴史教育を通じて分水界の向こうのありのままの姿を知らせなければ、誤った優劣意識を身に付ける恐れがあります。
1960年代のファッション革命についても紹介されています。
昭和後期は1960年代ファッション革命の申し子のようなところがあるのですが、1960年代ファッションは現在も継続していると見做すのには違和感があります。
『赤い鳥』には非営利の文化雑誌というイメージがあります。
しかし本書では、『赤い鳥』の童心主義が、子供を読者とせず、大人を読者としており、大人の懐古趣味である可能性を指摘しています。
現在のこどもと向かい合って初めて値打ちがあるのであって、本会も同窓会にならないことを標榜しています。
あさま山荘45年
3月9日(木)、BS朝日で、「あさま山荘45年」を見ました。
連合赤軍の関係者は、自殺した人や病死した人を別にすれば、まだ漸く老境に達した年頃なのですよね。
何せ私はまだ幼稚園の年少でしたので、遥かに古い事件のように思えます。
赤塚不二夫「天才バカボン」曙出版刊18巻(1974年)106頁「ポリ公ニューフェイスなのだ」では、交番に着任した新しい警察官が、「学生がいってるソウカツってやつをよう、やりてえなおれもあつさしのぎによお!!」と発言しています。
総括。
あの頃は、人間の身体や生命の値打ちが今よりも低かったと思います。
第二次世界大戦中に、人間の身体や生命の値打ちが国家の値打ちの足元にも及ばなかったのだとするならば、戦後27年を経過したこの時期には、そういったものの値打ちは革命の値打ちの足元にも及ばなかったのだと考えられます。
第二次世界大戦終結で戦争は終わっておらず、戦争の第2ラウンドとして冷戦が始まったとする捉え方には説得力があると思いました。
一連の連合赤軍事件の後、団塊の世代を中心とした学生の政治運動は急速に萎んで行きましたが、新人類世代を中心に新たに宗教系の学生運動が台頭して来ます。
学生運動の第2ラウンドと言ってもいいかもしれません。
既にソ連は消えています。
オウム真理教事件を契機に、「人間は死にたくない」という気持ちを基調にした危機管理思想が台頭するのですよね。
そうして人権意識の急高騰。
個人の値打ちは、他の何にも代えがたいとされるようになりました。
戦争が遠のいたからだとも言われます。
とは言え、インタビューに応えた連合赤軍の関係者が、現代の人権感覚で事件を反省していることにどこか違和感がありました。
「補助金を貰うのに必要だから」と現在では自民党員になっていることと無関係ではないのかもしれません。
オウム真理教事件の時に警察庁長官であった國吉孝次さんは、あさま山荘事件の時には軽井沢の現場で指揮を取っていたと言いますね。
「適応」を巡る先行世代の転身ぶりに見習うべきなのでしょうか。
鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』日本放送出版協会1998年を読んで
ファッション論の本です。
ファッションは、服装だけではなく、音楽・美術・思想など、その時代の人々の精神生活全般に影響を及ぼします。
ファッションは、「物語の魅力が摩耗して来ると、それを廃棄して別の物語に取り換える」「新しい物語は、<今>を生きているという気持ちにさせる」「いいから流行るのではなく、流行るからいい」「その物語が摩耗すると、また別の物語に取り換えられる」とのことです。
児童文学原作の児童映画は、「摩耗した物語」に当たるのではないでしょうか。
「児童文学原作の児童映画には普遍的な魅力があり、非営利の立場から今後も児童映画を継承する」という実践をしたいですね。
そう言えば、先日テレビで「25年目のJリーグ」という言い方をしていました。
「81年目の日本プロ野球」とは言わないと思います。
昭和30年代にも、「25年目の日本プロ野球」とは言わなかったと思います。
2026年のW杯では、出場国が現在の32か国から48か国に増やされるとか。
何を根拠にして10年後に今よりもサッカーが盛んになっていると予測が付くのでしょうか。
「サッカー産業にお金が流入し続けており、減る気配がない」ことが指摘されています。
プロ野球と比較してみると、プロサッカーには流行りの要素が強いことが分かります。
そうすると、プロサッカーは一旦物語の魅力に摩耗が見られたら、プロ野球よりも窮地に陥る可能性がありますよね。
個性主義に抑圧されるこどもたち
筑波大学の土井隆義さんが執筆した『「個性」を煽られる子どもたち-親密圏の変容を考える』(岩波ブックレット、2004年)を読みました。
「とりあえず、食事とかしない?」とか、「俺的には、〇〇の意見に賛成って感じ、ウン!」とかいったぼかし語を使う現代のこどもたちの人間関係について分析しています。
SMAPが2003年に流行らせた「世界に一つだけの花」が、この世代のこどもたちの個性に対する考え方をよく示しているそうです。
「♪一人ひとり違う種を持つ・・・一つとして同じものはないから・・・もともと特別なonly one。」
個性とは、人間関係の中で磨かれるものではないそうです。
個人が持って生まれたダイヤモンドの原石のようなものだそうです。
この社会では、個性的であることがいいことであるとされています。
それがこの社会の規範であり、個性を追求している個人は、この社会の規範を内面化させていることになります。
個性と個性が衝突したら、摩擦が起きます。
摩擦を避けるために、現在のこどもたちはぼかし語を使って意見の対立を表面化させないそうです。
(ここでも、先行研究はエミール・デュルケームになっています。「社会化」です。)
現在のこどもたちは、大きな社会変動を経験することがなく、自分がいる世界を歴史の一コマと捉えにくいため、個性追求に夢中になるそうです。
(私の母は、「戦争を知らない世代だ。あんたたちは、親が戦争を知っているから」とコメントしました。)
現在の生活に感動などなく、感動と言えるのはスポーツイベントくらいのもの、しかしそのスポーツイベント自体が現実に根差したものではない、1964年東京オリンピック時には、いくらでも世界に未開拓のフロンティアが広がっていた、とも述べています。
(資本主義の終焉は近い、と述べるある識者は、現在の世界に残っているフロンティアは熱帯アフリカくらいものものであることを指摘しています。この書籍が、2020年東京オリンピック誘致成功から10年近く前に書かれていることに注目すべきです。)
さて、ベルリンの壁崩壊後、フランシスコ=フクヤマは、「歴史の終焉」で、「議会制民主主義と市場経済は人類史の終着駅である。もう政治に振り回されることはない。個人は趣味に生きればいい」と述べています。
その結果が、個性主義なのですね。
戦争や革命で人命が失われる可能性はありません。
大切なダイヤモンドの原石を損ねることは、最大の罪悪なのでしょう。
ただ、アスリートの活躍がテレビを飾るだけの毎日。
必要以上に友達に接近したら、大きな摩擦を招く危険性。
自殺したくなりませんか。
教育関係者向けの『ガキ大将行進曲』上映会
今回の『ガキ大将行進曲』の上映会の客層は、教育関係者中心で、今までとは違った雰囲気でした。
それぞれの方が持っている「教育」に対しての思いを、映画と照らし合わせて、感想をたくさんいただきました。教育者ならではの鋭い感想もあり、今後の活動の参考になります。いろんな感想を聞いて感じたのは、『ガキ大将行進曲』の世界は、純粋無垢の結晶体だということです。『ガキ大将行進曲』に限らず、その当時の児童映画は、ピュアな心が詰め込まれている作品ばかりです。
一人でも多くの今のこどもたちに見てほしい映画ですが、教育関係者に向けての上映会も有意義ですので同時に展開していきたいですね。
僕といえば、上映会が始まる数日前から風邪をひいてしまいました。風邪自体、治りかけでしたが、体調を万全に整えるため、行きの深夜バスの予約をキャンセルして、当日の朝、新幹線で行きました。帰りは深夜バスでしたが、楽しかった感覚の余韻が残り、眠れなかったです。
第4回『ガキ大将行進曲』の上映会
1月7日(土)19:10~20:50に、埼玉県越谷市立南越谷公民館で、『ガキ大将行進曲』の上映会を行いました。
教員採用試験の勉強会の一環です。
上映時間が中途半端であるのには、訳がありました。
映写機が動かなかったり、画像が上下逆さまになったり。
中学校数学を志望している方が、「“おわり”と書いてある」と指摘して下さり、後半が前半に、前半が後半に巻き戻してあったことが判明しました。
故障ではありませんでした。
上映中に「小学校では“生徒”とは呼ばない」「昭和時代と平成時代とでは、逆上がりの持ち手が違う」といった声が上がっていました。
小学校で担任外をしていらっしゃる方が、「初心に戻れる映画」「“こどもの心は変わらない”と思える映画」「教員を志望した頃の気持ちを思い出せる映画」と批評して下さいました。
“心”という言葉が二回出ています。
“童心主義”映画と言ってもいいのではないでしょうか。