次代に渡すバトン
朝日新聞8月27日(日)付けに、「平成とは」という記事が掲載されています。
「次代へ渡し損ねたバトン」
「時代を語り 刻む意義」
「さらば『昭和』若者は立った」
「少子高齢化・格差・非正規雇用。20代官僚らは、危機感をネットで発信した」
「分かっていたのに手を打たなかった年長世代 『冷戦後28年間、敗退続き』」
昭和と平成は、天皇の代替わりによる時代の区切りであり、天皇の代替わりと社会変化に因果関係はない、としながらも、平成という時代は、大きな社会変化とぴたりと重なったそうです。
世界規模では、冷戦終結と同時にグローバル経済が開化し、IT革命が進行したとのことです。
国内では、バブル崩壊と55年体制の終わりとが同時に訪れたとのことです。
そうして、人口減少が急ハンドルを切ったとのことです。
右肩上がりの経済、会社丸抱え人生、両親とこども2人の標準家族、分厚い現役世代に支えられた社会保障、そんな「昭和の前提」が崩れたのに、日本は有効な手を打たなかったそうです。
本会では、こどもの歴史に限って論じますが、それでも1980年代半ば過ぎには現在のようになる予兆が見えており、私はそれを回避するよう手を打つべきだと述べていました。
1987年に臨時教育審議会が「情報化」「国際化」「個性重視の原則」を打ち出しましたが、そこで提案されたのは、「そういう新時代に適応しましょう」という主張であったのです。
「平成とは」を執筆した朝日新聞の編集委員は、講師を勤めている大学の2年生に「平成」という題で作文を書いてもらったところ、ある女子学生が
「平成しか知らない私たちの経験も、いつかは歴史教科書の数ページに纏められてしまうのだろう。だとすれば、私たちしか知らない、そのページからはみ出した出来事を心に刻んで正しく伝えたい」
と書いたそうです。
本会もそうです。
今から10年前には、こどもたちがいわば洗脳されており、昭和後期を伝えるのは難航しました。
「♪昭和無理、どこから見ても平成がいい。」
インシャツをしているだけでも、こどもたちの間から抗議の声が上がり、まるで思想犯でも見るかのような扱いを受けました。
あの時期のこどもたちに昭和後期の児童映画を見せようとしても、ボランティア団体から「そんなことよりも、紙芝居でも見せたらどうか」とただ昔風であるだけの行事に取り換えられそうになったこともあります。
紙芝居は、昭和30年代以前のまだテレビもない時代に行われたものであり、本会が次代に渡したいと思っているバトンではありません。
本会が現在のこどもたちに渡したいと思っているバトンは、昭和40~50年代のこどもの文化なのです。
私は、この時期のこどもの文化とは、大正時代に一部の中間層で開花した活字メディアによる童心主義を、テレビを通じて全国民に拡大したものであると捉えます。
当時行われていたことで今行われていないことは復活を検討してもいいのでは。「時代の流れ」で捨てたものの中に、どういう宝が埋もれているか分かりません。
当時行われていなかったことで今行われていることは中止を検討してもいいのでは。「時代の流れ」であろうが何であろうが、新しさ以外にこれと言った値打ちのないものもあると思います。
あまりにも多岐に渡るため、ここでは具体的に述べませんが、今のこどもが昭和後期のバトンを受け取れる空間を作りたいものだと考えています。
ページからはみ出した出来事を伝える作業ですね。
現代っ子が性に目覚めていることを隠すために
埼玉県男女共同参画センターで、角田聡美他『ブルマーの社会史-女子体育へのまなざし』青弓社2005年と山本雄二『ブルマーの謎-<女子の身体>と戦後日本』青弓社2016年という2冊の本を手にしました。
借りる時に多少司書の目が気になる本ではあるのですが、勉強になりそうなので借りて読んでみることにしました。
1960年代半ばにブルマーが普及する過程も、1990年代を通してブルマーが消滅する過程も、学校にも衣料品メーカーにもほとんど資料が残っていないそうですね。
少ない資料の中で、著者の分析力には敬服しました。
本が売れなくなるといけませんから、詳しい内容は書きませんが、私がかねて警告して来たことを教育関係者が無視して来たことを感じました。
「こどもの実態」です。
1984年のTBSドラマ「うちの子に限って」では、下校中の小学生の男の子が校門を出るなり学校にあかんべ―をして、女の子と手を繋いで繁華街に遊びに行く様を描いていたのです。
バブル期の女子高生たちが、テレクラブームを通じて軽い売春に馴染んで行くことが予想付かなかったのかな、と思います。
学校の外で性と馴染んだこどもに対して、学校関係者としては「危険な大人と関わらない」よう指導することくらいしかできないのですよね。
私はむしろ、こどもの中から性文化を嫌う子を発掘して、そういう子をリーダーに据え、性と馴染んだこどもを追い込んでいくことをお奨めします。
学校関係者のみならず、教育学者さえもが学校の中の出来事にしか関心を示さない中、「こどもの実態」論はあまりにも少ないです。
今回読んだ2冊を先行研究とし、この2冊では未解明な点をいずれ提起したいと思います。
因みに1993年当時発足したばかりのJリーグのユニフォームの丈はそれほど長くなく、1996年に顕著に長くなったとありました。
愛玩は室内で
私の勤務校の5年生が、近視の眼鏡を掛け始めました。
野球少年で、決してガリ勉をするような子ではありません。
1980年代に、裸眼視力が1.0未満の小学生は、20%前後で推移していたそうですが、2007年以降この10年間は30%前後で推移しているそうです。
電車の中でも、駅名表示を見る時に目を細くする小学生が目立ちます。
勉強のし過ぎが原因でないのなら、ゲームのし過ぎが原因だろうか、と一般的には考えられます。
しかしそれであるならば、ゲームがこどもの遊びに定着してから30年が経過するわけですから、「眼鏡を掛けた小学生は遊びが好きな子」というイメージが定着していてもおかしくありません。
昨夜、TBSで「生命38億年スペシャル―人間とは何だ」で興味深い説が提唱されていました。
中国のこどもは90%が近視であり、大学の入学式では新入生の全員が近視の眼鏡を掛けていた、というケースも報告されているそうです。
近視は眼球の奥行きが長くなる病気である、という捉え方をして、鍼で眼球の血行を促すという治療も行われているそうです。
近視の原因として考えられているのが、日光浴の不足。
中国では大気汚染が深刻で、こどもを外に出さない傾向があるそうです。
日本でも、オゾンホールが言われるようになってから、日光浴を忌避する傾向がありますよね。
野球少年であっても、小麦色が良しとされていた時代ほどには、外に出ていない可能性があります。
「美白」な小学生が近視の眼鏡を掛けていたら、勉強をしているにせよ、ゲームをしているにせよ、居場所は常に温かい室内であるように見えます。
合宿に参加して
教員志願者の合宿
10日から12日まで、京都で臨時的採用教員の合宿がありました。
実践報告をしたところ、昔から私のことを知っている人が、私の成長を感じると言って下さり、恐縮しているところです。
そうして今回は、本会代表が初めて一泊しました。
これを契機に、新しい人間関係が開けるといいと思います。
あったのになかったかのよう
早稲田大学演劇博物館で開催中の、「テレビの見る夢 − 大テレビドラマ博覧会」を見て来ました。
1970年代~80年代前半を、テレビドラマ黄金期と言うそうですね。
同感です。
「熱中時代」を写真3枚で取り上げていました。
2000年代までの展示を、会場の部屋を10年単位で均等に5分割していましたが、東日本大震災以降の2010年代の展示に1部屋を割り当てていました。
東日本大震災がテレビドラマの価値観転換の契機になったということですね。
ただ、入場料無料ということもあってか、あまり掘り下げた展示を見ることはできませんでした。
NHKアーカイブスも、展示が思うように進まないそうですが、できるだけ多く、できるだけ早く、昭和後期の映像作品がお蔵入り状態から脱することを願っています。
山中恒『現代子ども文化考-「子ども」に寄り添って-』辺境社2017年を読んで
山中さんは、最近公立小学校に呼ばれて、4・5・6年生250人を前にして4・5時間目の授業をしろと言われたそうです。
こどもたちを前に、山中さんがこどもの頃自分をいじめた奴に死んで祟ってやろうと思ったというお話をされたそうです。
すると、男の子たちから一斉に握手を求められたそうです。
私の勤務校でも先日1年生に対して安全教育があり、ALSOKの社員が出前授業をしていました。
終わると、ALSOKの社員はこどもたちからハイタッチの嵐になっていました。
ALSOKの社員は、給食も1年4組で食べ、こどもたちが体によじ登って来ていました。
大抵の公立小学校で、4時間目が12時25分頃に終わり、5時間目が午後1時40分頃に始まることを考えると、山中さんも4・5・6年のどこかのクラスでこどもたちと給食を共にしたのではないでしょうか。
山中さんは、こどもの頃のことをよく覚えていらっしゃいますが、私もこどもの頃のことをよく覚えています。
多くのこどもが、私と意思疎通してくれます。
こどもと意思疎通できる人とは、こどもの頃の思い出を今起きていることのように語ることができる人だと考えています。
それがこども視線と言えます。
小学校教員の場合は、大人視線でこどもを統率しなければなりませんが、児童文学(「読み物」でもいい)作家の場合は、こども視線が創作の原動力になると思います。
山中さんは、戦後間もない時期に、童話会に入りたくて早稲田大学に入学しています。
そこで、古田足日さんと出会っています。
この時期の早稲田大学童話会に、私のこども時代に活躍した児童文学(読み物)作家が集結していたと考えると、感無量です。
そうして、古田さんはつい最近亡くなってしまいましたが、山中さんは未だに健在で、現役の小学校4・5・6年生を前にしてガキ大将になっているのですよね。
東日本大震災・安倍内閣・キラキラネームに言及している辺りは、山中さんも現役の言論人なんだな、と感じました。
インターネット上では、テレビドラマ「あばれはっちゃく」が何かにつけて「今のこどもには通用しない」カビの生えた作品として蔑まれていますが、その原作者が健在も健在なのです。
「あばれはっちゃく」に出て来る子役たちと同い年の私など、まだ雛のようなものなのではないでしょうか。
山中さんは、一冊を通じて、すっかり自分を洗脳した国民学校教育を怨んでいらっしゃいます。
昭和一桁にとって、「大日本帝国は現実、戦後民主主義は理想」だから左翼を支持する人が多い、しかしゆとり世代にとって「戦後民主主義は現実、大日本帝国は理想」だから自民党・安倍内閣を支持する人が多いと言われます。
「ズッコケ三人組」の作者である那須正幹さんが、「ズッコケ中年三人組」を断筆する理由として、「70年代をこどもとして過ごした三人は、平和と民主主義の申し子。三人が老人になる頃に、平和と民主主義がどうなっているか分からない」ことを挙げています。
大正時代の童心主義が大きなうねりにならなかったのは、一つには中間層が誕生したばかりで脆弱だったことがありますが、もう一つには大日本帝国と童心主義の相性が悪かったことが考えられます。
大日本帝国にとって、こどもは戦力だったのですよね。
こどもはロマンではなく現実だったのです。
それに対して、戦後民主主義と童心主義の相性は良かったと考えられます。
女性が一生の間に産むこどもの数が減ったこともあり、「夢多きこども時代」を与えることができたと考えられます。
しかし、「戦争をしない国」は「国民を守れない国」の側面を示し、女性が一生の間に産むこどもの数の更なる減少は、こどもが犯罪被害者になることを極端に恐れる社会を作ってしまいました。
戦後民主主義の理想と少子化の理想がうまく釣り合ったのが昭和後期の状況であったと考えられます。
この状況を理想としてこれからのこどもたちに伝えて行くのは、決して間違ったことではないと考えます。
山中さんが言及しているこどもの戦時歌謡は、私も知っている歌ばかりです。
昭和後期の私のこども時代に、戦中世代の親から教わっていたのです。
私でも伝えられます。