昭和後期こどもの歴史研究会

平成時代の社会変化で、その直前の昭和後期こどもの歴史は忘れられています。お金にならないため、企業も投資したがりません。人間の幸福感の問題として、昭和後期のこどもの文化を、現在のこどもたちに伝えていく努力をしたいです。昭和後期のこどもの文化に幸福を感じる現在のこどもを、一人でも育てられたら嬉しいです。

映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』を見て来ました

西田敏行さんが群像劇の要になります。

西田さんが演じるのは、ナミヤ雑貨店の老いた店主、浪矢雄治です。

1980年、浪矢はシャッターの郵便口から、夜にこっそり届く悩み相談の手紙を受け取り、毎回必ず返事を書いていました。

・・・2012年、盗みを働いた若者3人が空き家に逃げ込みます。

それはかつてのナミヤ雑貨店でした。

この空き家の朽ちたシャッターの郵便口に、1980年の人々から手紙が舞い込み始めます。

西田さんは、浪矢を演じる際に大切なのは「80年代の感覚が体の中に生きていることだった」と話しています。

「自分自身の80年代を考えていました。『植村直巳物語』に出演していた頃だな、とか。当時の僕は30代後半。この年齢って精神と肉体のバランスがピークだそうです。若い頃は、体は動くが、どこまで深く演じられていたか。今は、体が言うことを聞かない分、頭は冴え冴えしています」と。

ウィキペディアで調べたところ、『植村直巳物語』は1986年ですね。

中曽根内閣の新自由主義改革は始まっていたし、ソ連ゴルバチョフが現れて冷戦終結に向けて歯車が動き始めていたし、1980年よりは、時間が進んでいると思います。

1980年の西田さんは何をしていたでしょうか。

映画や舞台では、活躍がないようです。ウィキペディアから抜粋すると、

池中玄太80キロ (1980年4月 - 6月、日本テレビ) - 池中玄太 役

・港町純情シネマ (1980年4月 - 7月、TBS) - 猿田禄郎 役

・一人来い二人来いみんな来い (1980年9月 - 1981年1月、TBS) - 金子三郎 役

・サンキュー先生 (1980年9月 - 1981年3月、テレビ朝日) - 石松鈍器 役

など、数本出演されているようです。

映画の中では、「1980年12月12日」と具体的な日付に言及されていました。

池中玄太80キロ」や「港町純情シネマ」は夏前に終了。

夏以後の出演では、「一人来い二人来いみんな来い」はウィキペディアにサブタイトルの記述がなく、直近に西田さんが何をしていたのか考察するのは断念しました。

しかし、「サンキュー先生」の方はサブタイトルが詳述してあり、1980年12月8日放映第13話「石松の危険な賭け」が直近であることが分かりました。

その物語を私も覚えています。

父親が高校教師のこどもが、緊張すると体調を崩してしまうのですよね。

「大人になりたくない」が口癖。

私も大人になりたくないです。

あの頃も、そうして今も。

今回の映画の中で、西田さん演じる浪矢が、2012年が絡んだ手紙を見て、「これって、遠い遠い未来から来たような気がする」と述べたのが印象的でした。

本会ブログの読者になって下さっている方が、「吉田友紀さんの50歳の誕生日」の中で、「なんだか、本当にあの頃から見たら、遠い未来に来てしまったのだなって思ってしまうのです」と述べていらっしゃいますが、私を含めてあの頃に人生の通過点以上の意味を見出す人には、現在を「遠い未来」と思えてしまうと思うのです。

今回の映画は、大分県豊後高田市に実在する町並みでロケを行ったそうです。

エンディングで、おおいたおやこ劇場が協力団体として挙がっていました。

九州はおやこ劇場が盛んであり、多くは拠点に一戸建てを借りて、舞台鑑賞やお泊りなど、様々な活動を行っています。

1969年に雑貨屋に来て「テストで100点を取るにはどうしたらいいですか」と浪矢に相談していた男の子とその友達は、案外プロの子役ではなく、おおいたおやこ劇場に来ている素人のこどもなのかもしれないな、と思いました。

平成の終焉 冷戦後の終焉

小学校では、おじいちゃん・おばあちゃん世代が第二次世界大戦中のこども体験を語ることは歓迎されます。

そのため、私は臨時的採用教員の面接で、「冷戦時代のこども体験を語りたい」と述べたことがあるのですが、面接者からたちまち変な目をされました。

朝日新聞9月15日(金)付けに、「『冷戦後』の終わり」という文章が掲載されています。

1989年夏、この文章の筆者が東ベルリンを旅行した時に喫茶店でコーヒーフロートを注文したら、アイスクリームは溶けていたし、コーラの気は抜けていたそうです。

そうしてこの年の夏が終わり、涼しくなった頃にベルリンの壁は崩壊したのですよね。

しかし鉄のカーテンの存在は悪いことばかりでなく、鉄のカーテンは西側諸国にとっては過度の資本主義化を抑制する作用を持っていたとのことです。

2017年に目を転じましょう。

今から10年近く未来の、2026年FIFAワールドカップの参加チーム数を32から1.5倍の48に増やした根拠は、サッカー産業に対する資金流入が止まっていないことにあるそうです。

サッカーの隆盛は、冷戦後の国際資本主義の作用そのものであると言ってもいいでしょう。

もし未だに鉄のカーテンが存続していたら、サッカーはメジャーになっておらず、多くのこどもたちがサッカーと出会っていなかった可能性もあるのですよね。

サッカーは、ファッションの変化に応じてユニフォームを新しくするような競技ですから、こどもにとってファッションはより身近なものになります。

冷戦終結はこども時代を別のものにしており、小学校で、お父さん・お母さん世代が冷戦時代のこども体験を語ることもあり得るのにな、と考えています。

元号8年の2026年FIFAワールドカップが、現在と同じ環境で迎えられるとする保証はありません。

必要なのは授業研究だけではない

私が博士後期課程の指導教員を探していた頃、神戸の私立大学で教授をしていた大塚英志さんにメールを送って返事をいただいたことがあります。

「1970年代こどもの実態論を研究したいのですか。先行研究は阿部進さんですね。ただ、世代論では博士論文は書けませんよ」と助言されました。

先日その阿部進さんが亡くなり、朝日新聞9月9日夕刊付け「惜別」に「カバゴンはこどもの味方」という文章が掲載されました。

最晩年とも言える今年の1月にも講演を行い、「学校が知らない新しい『現代っ子』がいるはず。それを書いた本を読みたい」と語ったそうです。

まさに私がその本を書きたいのです。

そのような現代っ子は、四半世紀も前に顕在化していると思います。

ブルマーを売るか売らないかは私が決める」というような女子高生と、裁判所がそういう女子高生の言い分を「新しい人権」として支持することを恐れる学校。

その構図が小学生にまで降りて来たら、それは「学校が知らない新しい『現代っ子』」になると思います。

博士後期課程の指導教員を探していた頃、「こどもの社会化」を専門にしている中国学院大学の教授からも返事は頂いていたのですが、「私とは違う」と回答されました。

国学院大学の教授は、「学校におけるこどもの居場所作り」を専門にされていたようです。

学校の中と外とで、こどもの顔が違うことをご存知ないようです。

変化の遅い現代この40年時間が停止

国立科学博物館が、カラーネガフィルムを未来技術遺産に登録するそうです。

朝日新聞9月6日付け夕刊「素粒子」でも、「白黒時代の記憶もそう遠くはないのに、アナログ人間ももはや遺物か」と論評されています。

昭和40~50年代の文化が無視・軽視されることが多い中で、例外的に人々が高い関心を示すのは、カラーネガフィルムなのですよね。

それからレコードも。

どちらも記録媒体に過ぎないと言ってしまえばそれまでなのですが、人々はその記録媒体に高い関心を示します。

白黒フィルムに写っている小学校の風景には次代に伝えるべき価値はあっても、カラーネガフィルムに写っている小学校の風景には、次代に伝えるべき価値はないとされてしまっています。

いわく、「カラーネガフィルムに写っている小学校の風景は、今と変わっていない!」。

小学校の風景は変わらず、ただ記録媒体だけが変わったのでしょうか。

それなら、当時の風景をデジタルカメラで写すことができたなら、あるいは逆に現在の風景をカラーネガフィルムで写すことができたなら、いつの時代の写真であるかは判別できないことになりますね。

映画を製作して観たいけど

先日教え子に「先生のつうしんぼ」を見せた時も、趣旨が通じていないな、と感じていました。

「この映画に出て来る子役たちは先生と同い年」と言っていたものが、こどもたちには「先生はこどもの頃子役をしており、先生が子役として出演している」と取られていたのです。

子役として出演していたなら、DVD化を許可する側に回りますよね。

その映画の関係者でもないのに、その映画を見せたいというのが、分かりにくかったかもしれません。

自主制作映画に取り組んでみるべきですかね。

平成に入ってからの児童文学作品でも、実写化してみたい作品はあります。

例えば、『夏の草-The Friends』(1994年)。

ただ、ここで登場するサッカー少年は、Jリーグに憧れているのではなく、実業団に憧れている、とイメージを変えなければならなくなります。

果たしてそういうイメージ改変を、原作者が許してくれるかどうかと思うのです。

原作から自主制作すれば、そういう問題も起こらないでしょうが、相当時間が掛かりそうです。

こどもに短編の原作を考えてもらい、それを2~3分の映画に纏めるところから始めましょうか。

昭和40~50年代のこどもの文化を伝えるためには

前記事の事務長の文章を読み、今までの活動を振り返ると、今のところ、本会の趣旨が今のこどもたちに浸透していないと感じています。昭和後期のこども文化のバトンを受け取れる場作りをしたいのですが、試行錯誤中です。

 

全国各地で児童映画の上映会を実施していますが、あくまでその当時上映された既成作品を流しているだけです。もちろん、その活動も効果的ですが、自分たちで脚本をし、子役をキャスティングしたオリジナル作品ではないため、本会の活動の訴求力がやはり弱いと感じています。「上映会を実施している」と話したら、相手の方が、「自分たちで映画を撮っているんだね」と思い込んでいたことが何度もありました。

 

ある教師の方が、「昭和後期こども文化をただ伝えようとするだけでは受け身になるだけ。今のこどもたちと一緒に映画を作る参加体験型の方がいいのでは」と言っていました。

 

ただ、昭和40~50年代のこどもの文化とは何か?と聞かれたら、あまりにも幅広くて答えられないので、継続審議中とします。こども文化と一口に言っても、児童映画、児童文学など、大人がこどものために提供した児童作品、こどもの生活を支える衣食住や価値観、遊びを通じたこどもの活動など、多種多様です。一つ言えることは、昭和後期の文化と昭和30年代以前の文化がごちゃ混ぜになっている状況をまずは整理しないといけませんね。

 

紙芝居は、テレビの普及で昭和30年代中頃には既に壊滅状態でした。でも、今では多くの人が保存活動に力を入れており、現在でも紙芝居ならではの良さを引き出した作品が登場しています。例えば、毎月1巻ずつ定期刊行紙芝居が出版されたり、教育現場にも活用されています。

 

それにひきかえ、昭和40~50年代に活発に上映された実写児童映画・ドラマは、一部の作品はDVD化されてはいるものの多くの作品は現在観ることができません。しかも昭和後期のこども文化黄金期を彷彿とさせるような実写児童映画・ドラマは現在ほぼ作られていませんし、教育現場にも活用されていません。

次代に渡すバトン

朝日新聞8月27日(日)付けに、「平成とは」という記事が掲載されています。

「次代へ渡し損ねたバトン」

「時代を語り 刻む意義」

「さらば『昭和』若者は立った」

少子高齢化・格差・非正規雇用。20代官僚らは、危機感をネットで発信した」

「分かっていたのに手を打たなかった年長世代 『冷戦後28年間、敗退続き』」

昭和と平成は、天皇の代替わりによる時代の区切りであり、天皇の代替わりと社会変化に因果関係はない、としながらも、平成という時代は、大きな社会変化とぴたりと重なったそうです。

世界規模では、冷戦終結と同時にグローバル経済が開化し、IT革命が進行したとのことです。

国内では、バブル崩壊55年体制の終わりとが同時に訪れたとのことです。

そうして、人口減少が急ハンドルを切ったとのことです。

右肩上がりの経済、会社丸抱え人生、両親とこども2人の標準家族、分厚い現役世代に支えられた社会保障、そんな「昭和の前提」が崩れたのに、日本は有効な手を打たなかったそうです。

本会では、こどもの歴史に限って論じますが、それでも1980年代半ば過ぎには現在のようになる予兆が見えており、私はそれを回避するよう手を打つべきだと述べていました。

1987年に臨時教育審議会が「情報化」「国際化」「個性重視の原則」を打ち出しましたが、そこで提案されたのは、「そういう新時代に適応しましょう」という主張であったのです。

「平成とは」を執筆した朝日新聞編集委員は、講師を勤めている大学の2年生に「平成」という題で作文を書いてもらったところ、ある女子学生が

「平成しか知らない私たちの経験も、いつかは歴史教科書の数ページに纏められてしまうのだろう。だとすれば、私たちしか知らない、そのページからはみ出した出来事を心に刻んで正しく伝えたい」

と書いたそうです。

本会もそうです。

今から10年前には、こどもたちがいわば洗脳されており、昭和後期を伝えるのは難航しました。

「♪昭和無理、どこから見ても平成がいい。」

インシャツをしているだけでも、こどもたちの間から抗議の声が上がり、まるで思想犯でも見るかのような扱いを受けました。

あの時期のこどもたちに昭和後期の児童映画を見せようとしても、ボランティア団体から「そんなことよりも、紙芝居でも見せたらどうか」とただ昔風であるだけの行事に取り換えられそうになったこともあります。

紙芝居は、昭和30年代以前のまだテレビもない時代に行われたものであり、本会が次代に渡したいと思っているバトンではありません。

本会が現在のこどもたちに渡したいと思っているバトンは、昭和40~50年代のこどもの文化なのです。

私は、この時期のこどもの文化とは、大正時代に一部の中間層で開花した活字メディアによる童心主義を、テレビを通じて全国民に拡大したものであると捉えます。

当時行われていたことで今行われていないことは復活を検討してもいいのでは。「時代の流れ」で捨てたものの中に、どういう宝が埋もれているか分かりません。

当時行われていなかったことで今行われていることは中止を検討してもいいのでは。「時代の流れ」であろうが何であろうが、新しさ以外にこれと言った値打ちのないものもあると思います。

あまりにも多岐に渡るため、ここでは具体的に述べませんが、今のこどもが昭和後期のバトンを受け取れる空間を作りたいものだと考えています。

ページからはみ出した出来事を伝える作業ですね。