天然痘が流行っても改元が
新元号が、2019年5月1日に施行されるそうです。
平成31年度が1か月しかないというのはよく分かりませんね。
平成が大方の予想よりも1か月伸びることで、平成生まれの赤ちゃんが何人増え、平成没の老人が何人増えるのでしょうか。
平成31年4か月を2で割ると、平成真っただ中は2003年夏になるのでしょうか。
ウィキペディアでこの年にあったことで目立つことを見ると、
・イラク戦争。軍事評論家などという人は、昭和後期にもいるにはいましたが、戦争放棄の掛け声の下に、あまり日の当たる存在ではありませんでした。
・駿くん殺害事件。2001年の宅間の事件の時は、騒いでいるのは専ら親や教師でしたが、この事件では「こどもがこどもを殺した」ことから、こどもの間にも一気に警戒が走りました。
・通り魔。「地域防犯マップ」などというものは、多分に通り魔を意識したものだと思われます。
・肺炎。流行るものは流行るのです。人間だから、日本にいるから、体力があるからと安心はできませんでした。
平成は、戦争・犯罪・病気など、痛いものが必要以上に流行った時代だと思います。
これが一世一元ではなかった江戸時代以前ならば、阪神・淡路大震災や東日本大震災を契機に改元していたところなのでしょうね。
平成時代など、早く過去のことにしたいです。
正常化
昨年のアメリカ大統領選挙では、トランプ候補が雇用問題について語っていた時に、クリントン候補は「性同一性障碍者のトイレをどうするか」について語っていたそうです。
日本流に色分けして、トランプ候補を保守、クリントン候補をリベラルと見做すならば、保守とリベラルの争点が嚙み合っていなかったことになります。
その点、日本では保守とリベラルが同床異夢で「性同一性障碍者のトイレをどうするか」について真剣に取り組んでいるのですよね。
リベラルが多様性を主張すれば、それは人権政策になります。
一方で、保守が多様性を主張すれば、それは経済政策になると言えるでしょう。
つまり、日本が一億総中流で、サザエさん一家を日本人のモデルケースとして国民の9割が該当した時代なら、保守が多様性を言う必要性はなかったのですよね。
男は社畜、女は家事・育児。
これでほとんどがうまく行ったのです。
仮に家族の中に性同一性障碍者が現れても、家庭内福祉で何とかできたかもしれません。
少数派に合わせて社会を変えるのではなく、少数派を顕在化させない社会に戻すことが必要であると考えます。
なまじ自民党の選挙公約に「多様性を受け入れる社会の実現を目指す」と盛り込んだものだから、竹下亘さんは自説を通すことができなくなったのですよね。
先般の衆議院議員選挙で、「一億総中流と呼ばれた頃の日本には、“お互い様”の文化があった」と強調した候補が、もし昭和後期を理想としてくれるのなら嬉しいことです。
改造人間
私の勤務校の2年生が、国語の授業で物語を創作しました。
N君という男の子が、渡されたフォーマットに「親友と住んでいる」と設定を書きました。
今時のこどもにしては、友情に厚いですね。
そうして、N君の机の下に鉛筆が落ちているのを発見し、「落ちていたよ」とN君の机の上にその鉛筆を載せました。
するとN君は、その鉛筆を見るなり、「変態!」と言って弾きました。
鉛筆を拾って見てみると、キティーちゃんの絵が描いてありました。
隣の女の子の鉛筆だったのです。
思わず、心の中でN君に拍手を送りました。
男の子が、女の子向けの鉛筆を持っていたら、変態だと言うのですよね。
現代の個性・多様性教育では、「女の子の心を持った男の子は多様性の象徴」と称賛されるところでしょう。
先日も、このブログで「男の子向けのお世話人形」「女の子向けのプラモデル」を紹介しました。
N君は、個性・多様性教育に洗脳されていないと言えます。
ジェンダーフリーの立場に立つ女の先生が、N君の発言を聞いたらきっとN君を叱責することでしょうね。
「変態」という下品かつ差別的な言葉を使ったことに対してではありません。
心の中に男女の敷居があることに対してです。
私の勤務校の方針で、N君に対しても「Nさん」という言葉が使われています。
「Nさん」の心の中にあったごく自然な男女の区別を、人工的に改造して何になるのでしょうか。
女性の良きパートナー
今日、勤務校の3年生の授業で、私がT君のことを「T君」と呼称したら、こどもがざわつきました。
T君いわく、「なぜ俺だけ“君”付けなの?」。
以前は男の子に“君”付けしていた年輩の男の先生も、最近は“さん”付けしています。
学習支援で入っている年輩の女性は、「“君”でいいんじゃありませんか」と言いました。
1年生の授業で、N君のことをどう呼称していいか分からず、「N」と呼び捨てを口走ったら、障害児の補助で入っている年輩の女性の先生が「呼び捨てをしてはいけません」と敏感に反応しました。
「N君」と言い直したら、すかさずこの女の先生が「この学校では男の子にも“さん付け”をしています!」と追い打ちを掛けました。
年輩の女の先生で、低学年を教えている人にはありがちなのです。
私は、教員採用試験を受けている方から、「あなたが、喧嘩をできるような男の子を育てようとしていることは分かる」と言われたことがあります。
喧嘩一つできない現在の男の子は、妙に目付きが優しいのです。
女の子とも仲良く遊べる目付きです。
男の子がこうなることで得をするのは誰でしょうか。
将来の女性の同僚や、将来の配偶者だと思います。
男が威張らなければ、男女が肩を並べて働くことができるし、男が優しければ、家事の半分を分担してもらえるからです。
私は童心ロマン主義の観点から「喧嘩をできるような男の子」を唱えていますが、年輩の女の先生は男女関係の観点から「優しい男の子」を唱えているのであり、議論をしても噛み合うことはありません。
私は、前出の学習支援員の女性に、「自分には男の子の“さん”付けは思想的にムリだ」と述べました。
若者は変革を求める
最近の若い人は、自民党を支持する傾向が強いそうですね。
私の認識と異なり、当惑しているところです。
昭和後期に形成された私の認識では、70代以上が最も自民党を支持し、60代、50代、となるにつれて自民党の支持が減って行き、20代は自民党支持が最少になるはずでした。
そうして若者は新しいものが好きだから、彼らが野党を支持するのは当然のことだろうな、と受け取っていました。
更に時代が流れ、社会が進歩すればするほど、自民党の支持基盤はなくなっていくのかな、という気もしていました。
しかし、ここで言う若者とは、団塊の世代の若い頃のことだったのですよね。
今でも団塊の世代に当たる60代は、他の世代に比べて安倍内閣支持率が低いそうです。
若い人の中でも、「就職もできたし、今のままでいい」という人は、どの世代にもいる大衆という存在でしょう。
岸信介元首相が言った「声なき声」とは、大衆のことであると考えます。
全共闘の時代に、中核派全学連の委員長が「無知な大衆を乗り越え」と演説し、直ちに非難されたと聞いています。
ただ、「野党は理想ばかりを言う」「それに対して、自民党はしっかり現実対応してくれる」と言って、若い人たちが町工場の社長と一緒になって自民党現職を応援しているというのでは、どこか違和感を覚えます。
若者に理想が通じないのですから。
「♪昭和無理、どこから見ても平成がいい」と歌った平成ジャンプのメンバーたちが、1993年生まれであるとのことです。
中国の古典『十八史略』に「鼓腹撃壌」という物語があります。
インターネット上の辞典では、「鼓腹撃壌」を以下のように説明しています。
<古代中国伝説上の聖天子である尭が、世の中が治まっているのかどうかを確かめるために、ひそかに市井に出たとき、老人が腹つづみをうち、地面をたたいてリズムをとりながら、太平の世を謳歌する歌をうたっていたという故事から>
平成ジャンプは現代版の「鼓腹撃壌」を歌い、太平の世を謳歌しているのかもしれません。
映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』を見て来ました
西田敏行さんが群像劇の要になります。
西田さんが演じるのは、ナミヤ雑貨店の老いた店主、浪矢雄治です。
1980年、浪矢はシャッターの郵便口から、夜にこっそり届く悩み相談の手紙を受け取り、毎回必ず返事を書いていました。
・・・2012年、盗みを働いた若者3人が空き家に逃げ込みます。
それはかつてのナミヤ雑貨店でした。
この空き家の朽ちたシャッターの郵便口に、1980年の人々から手紙が舞い込み始めます。
西田さんは、浪矢を演じる際に大切なのは「80年代の感覚が体の中に生きていることだった」と話しています。
「自分自身の80年代を考えていました。『植村直巳物語』に出演していた頃だな、とか。当時の僕は30代後半。この年齢って精神と肉体のバランスがピークだそうです。若い頃は、体は動くが、どこまで深く演じられていたか。今は、体が言うことを聞かない分、頭は冴え冴えしています」と。
ウィキペディアで調べたところ、『植村直巳物語』は1986年ですね。
中曽根内閣の新自由主義改革は始まっていたし、ソ連にゴルバチョフが現れて冷戦終結に向けて歯車が動き始めていたし、1980年よりは、時間が進んでいると思います。
1980年の西田さんは何をしていたでしょうか。
映画や舞台では、活躍がないようです。ウィキペディアから抜粋すると、
・池中玄太80キロ (1980年4月 - 6月、日本テレビ) - 池中玄太 役
・港町純情シネマ (1980年4月 - 7月、TBS) - 猿田禄郎 役
・一人来い二人来いみんな来い (1980年9月 - 1981年1月、TBS) - 金子三郎 役
・サンキュー先生 (1980年9月 - 1981年3月、テレビ朝日) - 石松鈍器 役
など、数本出演されているようです。
映画の中では、「1980年12月12日」と具体的な日付に言及されていました。
「池中玄太80キロ」や「港町純情シネマ」は夏前に終了。
夏以後の出演では、「一人来い二人来いみんな来い」はウィキペディアにサブタイトルの記述がなく、直近に西田さんが何をしていたのか考察するのは断念しました。
しかし、「サンキュー先生」の方はサブタイトルが詳述してあり、1980年12月8日放映第13話「石松の危険な賭け」が直近であることが分かりました。
その物語を私も覚えています。
父親が高校教師のこどもが、緊張すると体調を崩してしまうのですよね。
「大人になりたくない」が口癖。
私も大人になりたくないです。
あの頃も、そうして今も。
今回の映画の中で、西田さん演じる浪矢が、2012年が絡んだ手紙を見て、「これって、遠い遠い未来から来たような気がする」と述べたのが印象的でした。
本会ブログの読者になって下さっている方が、「吉田友紀さんの50歳の誕生日」の中で、「なんだか、本当にあの頃から見たら、遠い未来に来てしまったのだなって思ってしまうのです」と述べていらっしゃいますが、私を含めてあの頃に人生の通過点以上の意味を見出す人には、現在を「遠い未来」と思えてしまうと思うのです。
今回の映画は、大分県豊後高田市に実在する町並みでロケを行ったそうです。
エンディングで、おおいたおやこ劇場が協力団体として挙がっていました。
九州はおやこ劇場が盛んであり、多くは拠点に一戸建てを借りて、舞台鑑賞やお泊りなど、様々な活動を行っています。
1969年に雑貨屋に来て「テストで100点を取るにはどうしたらいいですか」と浪矢に相談していた男の子とその友達は、案外プロの子役ではなく、おおいたおやこ劇場に来ている素人のこどもなのかもしれないな、と思いました。
平成の終焉 冷戦後の終焉
小学校では、おじいちゃん・おばあちゃん世代が第二次世界大戦中のこども体験を語ることは歓迎されます。
そのため、私は臨時的採用教員の面接で、「冷戦時代のこども体験を語りたい」と述べたことがあるのですが、面接者からたちまち変な目をされました。
朝日新聞9月15日(金)付けに、「『冷戦後』の終わり」という文章が掲載されています。
1989年夏、この文章の筆者が東ベルリンを旅行した時に喫茶店でコーヒーフロートを注文したら、アイスクリームは溶けていたし、コーラの気は抜けていたそうです。
そうしてこの年の夏が終わり、涼しくなった頃にベルリンの壁は崩壊したのですよね。
しかし鉄のカーテンの存在は悪いことばかりでなく、鉄のカーテンは西側諸国にとっては過度の資本主義化を抑制する作用を持っていたとのことです。
2017年に目を転じましょう。
今から10年近く未来の、2026年FIFAワールドカップの参加チーム数を32から1.5倍の48に増やした根拠は、サッカー産業に対する資金流入が止まっていないことにあるそうです。
サッカーの隆盛は、冷戦後の国際資本主義の作用そのものであると言ってもいいでしょう。
もし未だに鉄のカーテンが存続していたら、サッカーはメジャーになっておらず、多くのこどもたちがサッカーと出会っていなかった可能性もあるのですよね。
サッカーは、ファッションの変化に応じてユニフォームを新しくするような競技ですから、こどもにとってファッションはより身近なものになります。
冷戦終結はこども時代を別のものにしており、小学校で、お父さん・お母さん世代が冷戦時代のこども体験を語ることもあり得るのにな、と考えています。
新元号8年の2026年FIFAワールドカップが、現在と同じ環境で迎えられるとする保証はありません。