バーベキューに参加
4月29日、バーベキューに参加しました。快晴の下で、食事をするのは気分的に心が落ち着きますね。教師が集うバーベキューですが、自分はまだ教師ではなく、今年から教師を目指すため、通信教育を受け、教職課程のレポートを書いています。
レポートを書くのは久しぶりで慣れてないため、ペースが遅く、しかも本業もあるため勉強をする時間も限られており、なかなか思い描く通りのスケジュールにはいきませんでした。でも、今回助言を多くいただき、視界が開けたようです。
教師の方の話しを聞くと、新年度に「学級開き」をする学校もあるんですね。こどもたちと担任教師が初めて顔を合わせる時に、ちょっとしたゲームをしたり歌を歌ったりするそうです。僕のこどもの頃は、学級開きはなかったような気がします。
教師を目指す傍ら、教師という職業と本会の趣旨とをどう関連づけて深めていくかも同時に考えていきたいです。
ハワイやギリシャだけではない
4月29日、埼玉県の道満グリーンパークでバーベキューがありました。
バスの車内もバス停も例年より混雑。
これは相当の人出が予想されるな、と思っていたら、午前9時に場所取りが行っても既に芝生広場はいっぱいで、周りの雑草が生い茂る場所しか残っていませんでした。
名古屋から代表も来て、今年から始めた教職課程のレポートについて助言してもらっていました。
一つ驚いたのが、外国人客の増加です。
白人やインド人が行き交い、こどもの口からは中国語が飛び出していました。
このようなデイキャンプ場をどこで知ったのかな、と思います。
観光立国は、消費社会への代案だと思うのです。
校長の脳内現象
アルマーニ標準服の件で、栃木県在住の中学校3年生が、中央区立泰明小学校を脅迫したとして、書類送検されたそうです。
栃木県を含めた地方の公立小学校の児童は、学校内となく学校外となく、一日を体操着で過ごすことが多いと思います。
この中学生が2年少し前までは小学校で教育される立場であったことを考えると、アルマーニ標準服の不適切さを強く感じたとしても不思議ではありません。
今回、インターネットにこの中学生による脅迫が書き込まれていたとして、泰明小学校が被害届を出していたそうですね。
被害届を出してまでアルマーニ標準服を守ろうとしたのは驚きです。
泰明小学校がアルマーニ標準服を撤回すれば、同校の児童は今よりも安全に過ごすことができるようになるでしょう。
嫌なこと
昭和後期の学校関係者は、「教育目的を達成する」ため、子供によく暴力を振るったと思います。
しかし、1990年代に入ってから、学校教育の目的が「一人一人の成長を支援する」ことに変わり、学校関係者が子供に対して暴力を振るうことはなくなりました。
子供としても、学校教育を受ける目的が自分のためになったのですから、学校で「嫌なこと」に耐える必要もなくなったのです。
「教育目的を達成する」ために学校教育を受けた世代か、「一人一人が成長する」ために学校教育を受けた世代か、大人になってから世代別に分かれて集会をしてみると傍から見て一目瞭然になると思います。
前者は、人間関係の縛りが堅く見えるのではないでしょうか。
後者は、人間関係の縛りが緩く見えるのではないでしょうか。
具体例を挙げれば、前者は「明日5時に集合、他の人も都合を付けて来るのだから時間厳守」とするところを、後者は「明日5時“頃”に集合、人それぞれ都合があるのだから、自分の都合を片付けてから」とするのではないでしょうか。
「嫌なこと」でも教育目的のために子供に強制をする学校教育と、教育は自分のためであり「嫌なこと」は必要ないとする学校教育とでは、そのような開きが出ると思えるのです。
種子
日本相撲協会広報部長が、女の子を土俵に上げられない理由を、「顔に傷が付く恐れがあるから」と述べていますね。
宮脇康之さんの自伝『ケンちゃんの101回信じてよかった』の記述を思い出しました。
小学生の頃、いじめっ子に殴られそうになった時、宮脇康之さんは「お願いだから、顔だけは殴らないで」と言ったそうですね。
人気の子役であり、さすが美貌が売り物だけのことはあります。
相撲のように、男らしさ・女らしさを頑固に維持できる世界も珍しいと思います。
現代人の人権意識に流されることなく、相撲が文化としての男らしさ・女らしさを継承して行くことを望みます。
来世紀になってから、今世紀のような人権意識が誤りであったと合意された時、相撲が前世紀の伝統を継承していれば、相撲を足掛かりにして男らしさ・女らしさを再構築することができると思うのです。
相撲が男女同権に踏み出していたら、男らしさ・女らしさは博物館にしか残っていないでしょうね。
一旦ゴーサインを出したら
ここ数日、わんぱく相撲に出場させてもらえない女の子がテレビで紹介されています。
確かに、女の子であることのみを理由にして、わんぱく相撲の門戸を閉ざすのは誤りでしょうね。
男性であることのみを理由にして、保育士への門戸を閉ざすのと同じことですから。
しかし、ここで気を付けなければならないことは、一旦門戸を開いたら、性別不問が善として独り歩きしてしまうことです。
現在、多様性の旗の下に、天から与えられた自分の性別と異なる生き方をすることが奨励されていますが、これらは1986年の男女雇用機会均等法が発火点になっていることを忘れてはなりません。
「私は女の子でいいわ」という女性に対して、「意識が低い!同じ女性として、恥ずかしい!」などと叱責する必要などどこにもありません。
性別不問は、天から与えられた性別のままに生きるのが困難である人に対して特例として認めればいいと思います。