演歌は日本人の心
小学校の先生が言っていました。
古臭い歌、中高年向けと思われる歌を小学生に聞かせたら、「やめてよ、演歌」と言われるそうです。
演歌が何かの象徴として偏見の目で見られていると感じました。
「演歌は日本の心」と言われます。
その一方で、洋楽を志向するJ-POPからは仲間に入れてもらえなかったと言われます。
しかし、輪島裕介『作られた「日本の心」神話-「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社、2010年)を読んでみると、そうした理解は、必ずしも史実ではないことが分かります。
演歌の起源は、明治時代・大正時代の政治風刺にあると言われますが、当時の演歌と、現在の演歌とでは別のものを指しているようです。
現在の演歌は、昭和初期に成立したレコード歌謡にその起源があるようです。
けれども、成立から少なくとも昭和30年代までのレコード歌謡には、演歌の要素はなかったようです。
現在の演歌歌手よりも一世代前のレコード歌謡歌手である藤山一郎、淡谷のり子、東海林太郎は西洋音楽を身に付けており、後年の演歌にも好意を持っていなかったということです。
昭和30年代の代表的な歌手である三橋美智也の歌にも、演歌の要素はないようです。
演歌という言葉がジャンルとして使用され始めたのは1964年。
演歌の新作がいくつも発表されるようになったのが1971年。
日本の経済成長から取り残されたようなやくざ・水商売・流しの芸人を主人公にしているから、日本的であり民衆的なのだそうです。
それも演歌の流行が続いたのは1980年代半ばまでで、到底音楽ジャンルとして定着したとは言えず、20年という流行の寿命から考えたら演歌はニューミュージックなどというのと似たり寄ったりだそうです。
私が物心付いた時期にはテレビで演歌が大量に流れていたため、演歌が日本の心であっても違和感はなかったのですが、ラジオ局やテレビ局のディレクターが仕掛けた結果として演歌が生まれたということを初めて知りました。
仕掛けの不自然さの反動で、流行が去ってからの世代には演歌の評判が悪いのかもしれません。
そうして、21世紀に入ってから、1960年代から1980年代にかけてのレコード歌謡を一括した用語が提唱されているそうです。
昭和前期・中期のレコード歌謡は「昭和歌謡」ではなくて、なぜ昭和後期のレコード歌謡だけが特別のジャンルを定立されるかは疑問の余地があるようですが、昭和後期のレコード歌謡には前期・中期とは異なる特徴があるようです。
昭和前期でも中期でもなく、昭和後期を眺めようとする本会の視点に妥当性はあると思われます。