昭和後期こどもの歴史研究会

~こどもは生まれる社会を選べない。生まれた社会に適応するだけである。Byエミール・デュルケーム~ 昭和後期のこどもが育った社会はどういう社会だったのでしょう。 それは、現在のこどもが育つ社会とはどのように違ったものだったのでしょう。 昭和後期に育ったかつてのこどもたちが、現在のこどもたちに、自分たちの育った社会を語り伝えたいと思います。 それが現在のこどもたちの歴史認識となり、彼らが未来を選択していく上での糧となることを願います。お問合せは、info★takuboy.net。★を@にして下さい。

ロケ地上映会を開催しました

『ガキ大将行進曲』のロケ地上映会が、やっと実現しました。

昨年9月から交渉を始めたものの、どこが主催するかで難航していました。

最初、日帰りで実施するつもりでいました。

当日朝4時半に自宅を出て11時半の会場設営開始に間に合わせる、というプランです。

しかし私の親が、「過労運転になる恐れがある」「翌日は、いつもより仕事の開始が早い」と反対し、富士川町内のホテルに一泊することにしました。

甲府市内の宿は、この時期どこも満室でしたが、富士川町まで行ったら、素泊まりでも空室がありました。

昨年の福島上映時も、福島市内の宿はどこも満室で、二本松市内まで行って漸く空室を見付けたのと状況は似ています。

8月21日(日)午前10時半に主催団体の代表者が私をホテルに迎えに来てくれました。

そこから車で2~3分の富士川町町民会館に移動。

映写機材を設営し、試写していたらやたら台詞に「~じゃん」という言葉が多いのに気付きました。

この時期の子供の言葉はそうであったのか、あるいは大沢豊監督が漫画かテレビの影響で子供の言葉をステレオタイプに捉えていたのか、どちらであろうと主催団体代表者に質問したら、「これは甲州弁だ」とのことでした。

なるほど、「~じゃん」の他に「~ずら」もあります。

主催団体代表者の娘さんが経営するイタリアンレストランに席を移し、名古屋からやって来た本会代表と合流しました。

主催団体代表者は、自宅から『ガキ大将行進曲』の原作を持って来ましたが、それは私が住む市の図書館にもあり、借りてかばんの中に持っていました。

午後1時に富士川町町民会館に戻り、設営作業を再開しました。

間もなく、観客がやって来ました。

『ガキ大将行進曲』の中でエキストラをしたという女性も現れました。

富士川町市川三郷町の全小中学校に家庭数のチラシを配布し、総数52名の観客が見えました。

開会の挨拶で、難波克弘さんの個人ブログにお誘いを投稿したのだけれども、今は日本にいらっしゃらないということで「花束贈呈」は実現しなかったと述べました。

会場がどっと沸き、エキストラをしたという女性も沸いていました。

3時半に上映終了後、そのエキストラの女性に名刺を渡したのですが、子役としてエキストラをしたのではなく母親役の一人でエキストラをしたこと、光男くんたちを陣馬山競争に送り出す母親たちの中にいたこと、今も作者の故・塩沢清さんの奥さんと年賀状交換をしていることなどを聞かせてもらいました。そうして、本会の活動を、「とてもいい活動だ」と褒めて下さいました。

母親役の方が健在であることを知り、『ガキ大将行進曲』の時代はそれほど古い時代ではないと私は感じました。

難波さんが日本に見えることがあれば、主催団体代表者と再び連絡を取り、上映会をもう一度行い、「花束贈呈」を実現できればいいなと思っています。勿論、本会の希望に過ぎませんが。

帰りは、中央高速をひた走りました。

夏の終わりの日曜日の夕方は、例年大月から八王子までの区間が渋滞しており、今年も例外ではありませんでした。