正常化
昨年のアメリカ大統領選挙では、トランプ候補が雇用問題について語っていた時に、クリントン候補は「性同一性障碍者のトイレをどうするか」について語っていたそうです。
日本流に色分けして、トランプ候補を保守、クリントン候補をリベラルと見做すならば、保守とリベラルの争点が嚙み合っていなかったことになります。
その点、日本では保守とリベラルが同床異夢で「性同一性障碍者のトイレをどうするか」について真剣に取り組んでいるのですよね。
リベラルが多様性を主張すれば、それは人権政策になります。
一方で、保守が多様性を主張すれば、それは経済政策になると言えるでしょう。
つまり、日本が一億総中流で、サザエさん一家を日本人のモデルケースとして国民の9割が該当した時代なら、保守が多様性を言う必要性はなかったのですよね。
男は社畜、女は家事・育児。
これでほとんどがうまく行ったのです。
仮に家族の中に性同一性障碍者が現れても、家庭内福祉で何とかできたかもしれません。
少数派に合わせて社会を変えるのではなく、少数派を顕在化させない社会に戻すことが必要であると考えます。
なまじ自民党の選挙公約に「多様性を受け入れる社会の実現を目指す」と盛り込んだものだから、竹下亘さんは自説を通すことができなくなったのですよね。
先般の衆議院議員選挙で、「一億総中流と呼ばれた頃の日本には、“お互い様”の文化があった」と強調した候補が、もし昭和後期を理想としてくれるのなら嬉しいことです。