昭和後期こどもの歴史研究会

~こどもは生まれる社会を選べない。生まれた社会に適応するだけである。Byエミール・デュルケーム~ 昭和後期のこどもが育った社会はどういう社会だったのでしょう。 それは、現在のこどもが育つ社会とはどのように違ったものだったのでしょう。 昭和後期に育ったかつてのこどもたちが、現在のこどもたちに、自分たちの育った社会を語り伝えたいと思います。 それが現在のこどもたちの歴史認識となり、彼らが未来を選択していく上での糧となることを願います。お問合せは、info★takuboy.net。★を@にして下さい。

夏の福島上映会『ガキ大将行進曲』2015

 8月5日(水)13:30~14:45に、福島市野田児童センターで『ガキ大将行進曲』(1979年)の上映会を実施した。

 フィルムは埼玉県立熊谷図書館から借りて来て、映写機とスクリーンは福島市立図書館から借りて来た。福島市立図書館には、映写機は二台あったが、うち一台は故障中。借りるに当たって、「くれぐれも壊さないで下さいよ。壊したら、部品がなくて修理できませんから」と言われた。数年前、デジタルカメラ普及の影響で富士フイルムが16ミリフィルムの生産を打ち切ったが、16ミリフィルムを再生するための映写機の生産も打ち切られていたのである。もはや、16ミリ映画は文化として現存していない。

 児童センターが町内に上映会を回覧して下さったこと、放課後児童クラブの在籍児童(小学校1~3年生)全員を連れて来て下さったことから、来場者は100名に達した。放課後児童クラブを卒業した4年生の女の子を連れて来た老夫婦は、「私の青春時代です」「私も、家庭で8ミリフィルムを撮り溜めしていたんですが、映写機がなくて再生して見ることができないんです」と仰った。

 上映を始める前の挨拶で、3年生のこどもたちに前に出て来てもらって、「自分と同い年の子役」について発表してもらった。そうして私は、これから上映する映画に出て来る子役たちは、私と同い年であることを説明した。

 こどもたちがどこに関心を示すか観察していたら、モンキーが給食のときに口の周りを牛乳塗れにして飲む場面や、トマトを石に見立てて両陣営に分かれて投げ合う場面でどっと沸いた。学校では禁止しているだろうが、こどもたちは食べ物をおもちゃにするのが好きなのである。そうしてこどもたちは、映画の内容もさることながら、映写機に関心を示した。

 最後に、「この映画のどこが古いか」を発表してもらった。「画面が暗い」「普通なら、画面を動かしているであろう場面で、画面を止めている」などの意見が続いた。すると、ある体の大きい3年生が、突然意見を発表した。「子役の顔が渋い!子役の顔が渋い!」。決してこれは不思議な意見ではない。筑紫哲也さんが亡くなったとき、テレビで筑紫哲也さんが小学校6年生のときの白黒写真を見たことがある。まるで豆腐のような顔をしていた。筑紫哲也さんは1936年生まれである。私の父親が大学に入学したときの写真を見たことがあるが、やはり豆腐のような顔をしていた。私の父親も、1936年生まれである。確かにその世代に特徴的な顔はある。

 上映会の片付けが終った後、かき氷を奨められた。かき氷を食べながら、園庭で遊んでいたこどもたちに話しかけたら、私をドッジボールに誘ってくれた。中心にいたのは、さっき「顔が渋い」と言った体の大きい3年生であった。K君としておく。K君は、私にあだ名を付けてくれ、センター内を引っ張りまわしてくれた。紙芝居を見るときには、私を隣に座らせ、5時半になって帰宅するときには、センター長と話し込んでいた私にハイタッチして行った。すっかり気に入ってもらえた。

 上映が終った後にも、「『ガキ大将行進曲』は確かに古い」というこどもたちの声が聞こえていた。それでも楽しんでくれたのである。2020年東京オリンピック招致のプレゼンテーションで、安倍総理は「サッカーボールを蹴っている福島のこども」というものを持ち出して世界の共感を得た。だが、安倍総理も、国際オリンピック委員会も、その福島のこどもが、昭和後期の児童映画を楽しめたとは考えてもいないであろう。一丸となって新しさを追求しているのが現代の日本である、という常識がどこかにある。

 

2015年8月6日(木)事務長執筆