昭和後期こどもの歴史研究会

平成時代の社会変化で、その直前の昭和後期こどもの歴史は忘れられています。お金にならないため、企業も投資したがりません。人間の幸福感の問題として、昭和後期のこどもの文化を、現在のこどもたちに伝えていく努力をしたいです。昭和後期のこどもの文化に幸福を感じる現在のこどもを、一人でも育てられたら嬉しいです。

新自由主義の下でこどもは

「夢多きこども時代」は、日本では大正時代の都市中間層に始まりました。

「少なく生んで、よりよく育てろ」「いつまでも穢れなきこどものままでいて欲しい」といった表現が、この時期の都市中間層の子育て意識を象徴していると言われます。

生産力が低く、所得も低い社会では、生存戦略が多産多死モデルとなり、こどもには早い時期から大人に混ざって働いてもらわざるを得ません。

日本では、明治時代までは多産多死モデルだったと言われています。

ただ、大正時代の都市中間層は、まだ数も少なく、それから15年後に、こどもを戦士にするための多産多死モデルが現れてもこれに抗うことができなかったわけですが。

合計特殊出生率が1954年生まれで2.5を切り、2.0以上2.5未満の状態が1974年生まれまで続いて行きます。

20年間も安定して「二人兄弟」を維持できたのは、それだけこの時期の日本が安定していた証だと思うのです。

この時期を経済史で眺めると、ケインズ主義の時代であり、福祉は政府の仕事とされていました。

背景にはドルが強かったこと、強かったドルの背景には、この時期新規の油田がいくつも発見されたことがあるようです。

その後の新自由主義の到来は、英米では日本よりも10年早く、サッチャーさん(1979年首相就任)やレーガンさん(1981年大統領就任)の時期です。

80年代に準備されたものが、90年代に普及した、と考えるのは誤りではないようです。

今のこどもは、規制緩和された教育現場を、こども時代の景色として眺めていることになります。

「教育における規制緩和」で検索を掛けると、論文が一斉に表示されます。

今後、本会で研究できるものがあればいいですね。

こどもの貧困

第2回東大手サロンに参加しました。テーマは「生活困窮者支援をふり返る」です。生活困窮者へ精力的に相談・支援している方がゲストで、貴重な体験談や、団体の運営方法など聞くことができ、有意義な時間でした。本会の趣旨に沿って、このブログを書くとしたら、こどもの貧困についてでしょうか。

こどもの貧困の現場を直接関わったわけではないので、あくまで印象ですが、昭和後期の頃と現代と比べて、こどもの貧困も多くなったのではと感じてます。統計資料に当たったら、思った通りの推移でした。

内閣府の平成27年版 子ども・若者白書にも、「子供の相対的貧困率は1990年代半ば頃からおおむね上昇傾向」とあります。ウィキペディアの「子どもの貧困」の項でも、生活保護受給の子どもも1990 年代後半から少しずつ増加していると書かれています。もちろん、統計は平均的な傾向を表す指標ですので、個々の現場とは多少違っていることはあると思いますが、それでも、こどもたちの環境の変化は、90年代後半が分岐点になるのではと考えています。昭和後期の時代は、格差が今ほど広がっておらず、中流家庭が多い平和な時代だと言えます。

捕捉ですが、生活保護に関しては、一時期、マスメディアで不正受給者に関する報道が大きく行われました。それにより偏見が増し、生活保護を申請するのが恥ずかしいことだと思い、本来支援が必要な方が生活保護を受けられない状況になっているそうです。

「こどもの貧困」は、お金がないというだけだけに留まらず、「こども文化の貧困」も挙げられると思います。「あばれはっちゃく」や「ケンちゃんシリーズ」のような実写の児童向けドラマが作られず、こどもたちが創意工夫して遊ぶことができる原っぱも減少し、あらゆる事象で「夢多きこども時代」を奪っていく環境が進んでいる状況です。

小中一貫教育は、ガキ大将の価値を知らない

今から1年前、臨時的採用小学校教員の口を探して、多くの自治体の教育委員会の窓口を訪ねていました。

ある自治体で、たまたま教育委員会に来ていた市内小学校の教頭先生の車に乗せられ、現場を見学することになりました。

この自治体は、小中一貫教育に熱心でした。

一部の学校では、施設も教職員も教育課程も完全に小中を統合してしまい、5年生から部活に参加、6年生修了時には5年生以下と同じ修了式を執り行い、卒業式は9年生修了時に行う、というものでした。

最近のこどもは、情報の影響により、小学校高学年は実態としてはむしろ中学生に近い、小学校のリーダーシップは4年生に期待する、とも聞かされました。

臨時教育審議会以降、学校教育はこどもの実態に合わせる道を選んでいます。

しかし、5~6年生を「中学生の後輩」にしてしまうことは、「夢多きこども時代」を理解しない愚行であると言わざるを得ません。

あばれはっちゃく」の原作は、「花の小学生大作戦」という最終章で締めくくっていますが、桜間長太郎くんも小学校の高学年であるからあのような活躍ができたと思うのです。

もし桜間長太郎くんが小学校4年生であったらあれだけの活躍をする知力も体力もなかったと思いますし、もし中学生であったら部活の先輩の尻に敷かれてあれだけの天衣無縫な振る舞いはできなかったのではないでしょうか。

横山充男さんの「四万十川物語 光っちょるぜよ!ぼくら」も、作者の小学校6年生時の体験を基にした作品であり、小学校6年生の知力と体力を前提にしています。

小中一貫教育を行ったら、小学校6年生のリーダーシップを前提にした一昔前の児童文学は読めなくなります。

また、中学生たちは5~6年生にいい影響を与えるでしょうか。

特に多くの5年生は思春期前です。

部活を通じて知り合った9年生から、セックスの誘い、深夜徘徊や盛り場徘徊の誘い、薬物の誘い、暴力団との付き合いの誘い・・・とあらゆる10代の非行が低年齢化する危険性があります。

10代の非行は、今までは小中学校が別であることで堰き止められていたものであり、兄・姉がいない限り小学校卒業前のこどもには拡大しないものでした。

公立義務教育は、同じ地域に住む全てのこどもが入学して来るものであり、「中学生世代からのいい影響」ばかりを期待する大人たちは、ご自分の校内暴力体験をどう考えているのでしょう。

小中一貫教育の魅力は新しさであるとも聞かされました。

新しさの波に乗って、ジェンダーフリーも普及したのでしょうね。

21世紀を前にし、急速な技術革新を目の当たりにして、新しい生活様式、新しい人間関係が人々の心を魅了したとしても不思議ではありません。

「○○の概念は時代と共に変わるもの」という言葉が決め台詞になる現代です。

○○の中には、「こどもらしさ」だけではなく「憲法」が入っても説得力を持ちます。

そうして、時代の変化なるものは自然の流れの結果ではありません。

一人一人の選択の結果であり、「みんな」がいいとするものを選ばないこともできます。

私は、明星大学博士後期課程で「情報がこどもに与える影響」の研究をしたいと考えましたが却下されました。

教育学研究科では「教室の中」の研究をするばかりであり、「教室の外」の研究は教育学の対象外になっているようです。

「情報」は「教室の外」の出来事であり、学校教育としても抗いようのないものなのでしょうか。

ガキ大将の価値

先月参加した「東大手サロン」は、「地域資源長屋なかむら」という協働・連携オフィスで開催されました。そのオフィスの入居団体とも交流を深め、2月18日に読書会に参加しました。

1冊の本だけを選んで、対話していくという形式で、お題本は『先生はえらい』(内田樹著)です。一通り読んでみて思ったのは、先生にこだわらずとも、「えらい」という対象は、多岐に渡るということです。本会の趣旨に照らして言えば『ガキ大将はえらい』と考えるにしても、著者が主張していることの本質は変わらないと解釈しました。

初代あばれはっちゃくの第9話でも下の学年の子が桜間長太郎に憧れて弟子になる話がありましたね。小学校5~6年生がリーダーシップを発揮して、下の学年の子が「かっこいいなあ」と感じることも「夢多きこども時代」の風景です。昭和後期こどもの歴史研究会は、ガキ大将の価値を伝えていきたいですね。

今日は、第2回「東大手サロン」が開催されます。

ど根性ガエル

昨夜(2月13日夜)、BSジャパンで漫画家・吉沢やすみさんのその後について、本人インタビューを中心にした番組が放映された。

ど根性ガエル」の作者である。

福島市野田児童センターに来ているこどもたちもそうであったが、今の若い人たちには昨年から放映されている「ひろし30歳」のテレビドラマ版が、馴染みがあると思う。

私にとっての「ど根性ガエル」とは、私が幼稚園の頃放映されていたあのアニメのことである。

1970年代前半独特の作品だった。

京子ちゃんの顔が大きかったこと。

1969年以来サザエさんは顔が大きいし、1973年に放映された日本テレビ版の「ドラえもん」のしずかちゃんは顔が大きかったし、1970年代前半の女の子の描き方は、みな顔が巨大な異様プロポーションだった。

今回のインタビューで、その幼稚園の頃の作品が、まだ生きた作品であることが分かり嬉しかった。

今は思うように絵筆が握れない吉沢さんの生活を、「ど根性ガエル」による版権収入が支えているそうである。

あの時代のこども文化を作り出した人たちには、長く活躍してもらいたい。

「東大手サロン参加ご苦労様でした」事務長

東大手サロン参加ご苦労様でした。私も名古屋近辺に住んでいるなら、同席したいところです。

深谷シネマの館長様からも、地域に定着し、地域の信頼を得ることの大切さはご助言いただきました。

地方で上映会を開いても、「またの機会」に繋ぐのが難しいと感じています。

愛知県の場合、16ミリフィルムを公共図書館等が購入し、無料で県民に貸し出してくれる制度を設立することが急務であると言えるでしょう。

民間業者がフィルムを貸し出すサービスもありますが、あくまで有料であり、1回あたり5万円は掛かるようです。

100人来場があると考えて、一人当たりワンコインの負担をお願いすることになりますが、それでは「実費とは言えお金のやり取りがあるなら上映会の話は受けられない」という事例に遭遇するものと思われます。

そういう面では、埼玉県は恵まれていると思います。

今時、16ミリ映写機操作技術認定講習会を修了すると同時に、県内の図書館からフィルムを借りられる事例は多くはないでしょう。

現在60代~70代の埼玉県のお母さんたちが、昭和後期に頑張ってくれたお蔭かな、と思ったりもしています。

「東大手サロン」の交流会に参加

昭和後期こどもの歴史研究会 代表者 執筆

 

これから本会の活動をどのように展開すればいいのか、ヒントになるのではと思い、先月1月28日に、第1回「東大手サロン」という交流会に参加しました。地域や社会の課題解決に取り組む人や関心のある人が集まる場です。

 

集会の内容は未知数でしたが、参加しやすい雰囲気を主催者の方が作ってくださり、和気あいあいと楽しくて勉強になる時間を過ごしました。今回参加した人たちも、様々な面白い団体活動をしていて、大いに刺激をもらいました。ゲストの方は、市民活動の場の提供、相談、研修活動に関わっていて、市民活動センターについての濃い内容も聞き、参加して良かったです。

 

最初に自己紹介をした時、本会のことを紹介しました。 「昭和後期こどもの歴史研究会」の代表者と言った時、皆さまが驚いていたように見えました。ただ、そこで引け目を感じたことがあります。本会の事務長の協力により、他県では上映会を開催しているのに、肝心な代表者の地元では特に何もしてなかったことです。これからは愛知県内を重点的に活動をしていくと決めたので、「東大手サロン」のような交流会が開かれたことは、とてもありがたいことです。

 

愛知県のどこかで、16ミリ児童映画の上映会が活発に行われる地域を作り上げたいと考えています。