昭和後期こどもの歴史研究会

平成時代の社会変化で、その直前の昭和後期こどもの歴史は忘れられています。お金にならないため、企業も投資したがりません。人間の幸福感の問題として、昭和後期のこどもの文化を、現在のこどもたちに伝えていく努力をしたいです。昭和後期のこどもの文化に幸福を感じる現在のこどもを、一人でも育てられたら嬉しいです。

新見南吉記念館に行って来ました

新見南吉作、『ごんぎつね』。

小学校4年生の国語教材として、定番中の定番ですね。

音楽教材の『とんび』も定番中の定番。

不思議と、4年生の教材には定番中の定番が集中します。

8月12日(金)、愛知県半田市にある新見南吉記念館に行って来ました。

名鉄知多半田駅前からの路線バスは本数が少なく、タクシーに乗らざるを得ませんでした。

「新見南吉記念館」と運転手に告げると、「今日、新見南吉記念館で何かあるんですか。午前中乗せたお客さんが、千葉から来て新見南吉記念館に行きましたよ」と言うのです。

教育関係者がよく来るそうです。

彼岸花が咲く季節には、駅前からシャトルバスも運行され、屋台も並ぶとか。

新見南吉記念館に入ってまず目に飛び込む標語は、「昔も今も、ごんはずっと君の友達」。

いいですね、幼い友情。

椅子に腰かけて読書をする新見南吉の等身大の銅像を横に見ながら、展示室に入ります。

新見南吉は小学校の代用教員だったのですね。

愛知県が新見南吉に発令した辞令を見て、実感が沸きました。

そうして、同僚の女教師と恋仲だったとか。

私の恩師たちも、職場結婚した人が多いですが、小学校に勤務したら普通は職場結婚になるのでしょうか。

新見南吉は、その後東京外国語学校を出て、愛知県立安城女学校の英語教師になったそうです。

戦時中の写真で、受け持ちの部活の女子生徒に囲まれた新見南吉が、幸せそうに見えました。

「疾風怒濤」の時代が輝いて見える人には幸せなのでしょう。

新見南吉からはみ出したところで、「こんなにあっという間に消える教材も珍しい」と6年生の『最後の授業』が紹介されていました。

内容の紹介は省略します。

検索で調べて下さい。

アルザス地方で使用されていた言語は、ドイツ語の方言であり、フランス語は公用語に過ぎなかったという事実が証明されてしまい、物語は嘘であることに決まってしまったのです。

作者が想像だけで書いた物語なのでしょうか。

私が通った教職課程の授業で、教授が「皆さん『最後の授業』を知らないの?わあ、世代差を感じるな」と仰っていました。

この展示を見て、世代差の問題ではなく、選挙の際のネガティブキャンペーンと同じ性質のものを感じました。

それから、新見南吉記念館を後にし、田んぼと軒の低い住宅地を通って、歩いて新見南吉の生家に向かいました。

格子戸を開けると、私の父の実家と同じように、ツンと鼻に衝く黴の匂い。

狭い梯子を下ると、半分地下の台所・風呂場・居間に出ました。

胸の高さのところに地面があり、夏草が茂っていました。

経済的に豊かで、衛生面に問題がなければ、このように自然に近い生活も悪くはないのですが、問題があったから新見南吉は長生きできなかったのですよね。

現代の、オートロックのマンションで育った人は、長生きできるでしょうか。

見学を終えてから、当てずっぽうで東に向かったら、名鉄半田口駅に出ました。

途中名古屋行きの特急に乗り換えたら、クロスシートの観光仕様であるにも関わらず、窓のカーテンが半分閉まって放ってあるなど、あまりよそ行きではないな、と感じました。

「こどもファッション-小さい人たちへの眼差し」を見て来ました

東京都庭園美術館で開催中の、「こどもファッション-小さい人たちへの眼差し」を見て来ました。

「こどもらしさは、こどもが作ったわけじゃない」というサブタイトルにも、関心を抱きました。

冒頭で、NHKテレビで紹介された、「男の子向けドレス」が登場します。

新しさを追求して現代人を驚かせようとしたわけではなく、18世紀のヨーロッパで男の子向けファッションとして実在したことが分かりました。

18世紀後半には、こども服では、可愛らしさを追求しようとしたそうなのですが、1810
年代に、こどもが大人と同じ服を纏い、「小さな大人」になった時期があるそうです。

優秀な児童文化(児童文学・玩具など)が輩出されなかったことが原因だそうです。

日本で言えば、百姓一揆や打ちこわしなどで、江戸幕府の統治が揺らぎ始めた頃です。

日本におけるこども服では、1923年に広まった男の子用の水兵服が印象的でした。

『赤い鳥』の時期です。

『コドモノクニ』の復刻版が陳列されていましたが、最も新しいものは、第二次世界大戦が始まったばかりの1942年8月号でした。

以上見て来て、ヨーロッパにおけるこども服でも、日本におけるこども服でも、それを懐かしく感じる人たちが、ほとんど存命していないのではないかと思いました。

「同窓会にするのではなく、次代に伝える」が本会の課題ですが、同窓会も開けないような遠い過去のことしか取り上げられないのが現状なのです。

16mmフィルム映写機の講習を受けました

本会は、昨年2回上映会を催し、今年も8月21日にロケ地上映会を実現しましたが、今後も定期的に開催していきます。一つ懸念事項になっているのは、本会で16㎜フィルム映写機を扱えるのは一人しかいないということです。

自分も本会の代表者でありながら映写機を操作したことがないので、8月6日に16㎜フィルム映写機の講習会を受けました。講習会の場所は、僕が住んでいる所から120キロ位という遠出ですが、普通列車に乗り継ぎ、3時間近くかかりました。特急を使うのも早く到着していいのですが、普通列車に乗り継いで車窓を眺めるのは楽しいものです。

講習会といっても、僕一人、つまりマンツーマンです。映写機も16ミリフィルムも年代物ですので慎重に取り扱わなくてはならなく緊張しました。でも、丁寧に分かりやすく教えていただいたかいもあり、映写機の操作を修得しましたので、今後の活動に活かされます。この場で、お礼申し上げます。

まだ完全には決まってませんが、名古屋でも11月~12月頃には、上映会を開催する予定です。

ズッコケ熟年三人組

2005年以来続いていた、「大人になった三人組」の完結作品です。

人気作のようで、市立図書館で貸し出し中が続いており、やっと借りることができました。

・三人は、年齢相応に年を取っている。

・三人は、流行に沿った生活様式を取り入れることが嫌いではない。

そうして最大の特徴は、

・三人を含めた旧・花山第二小学校6年1組は、卒業以来、6年生の時の人間関係を維持している。

降霊術だなんて、三人は絵に描いたような70年代の少年なんだなあ・・・と思いました。

広島東洋カープの初優勝の余韻が残っていた頃ですよね。

オカルトブームの影響を受けた70年代の少年が、80年代に青年になり、学園で新宗教に勧誘され、その最も先鋭的な部分がオウム真理教事件を起こしたのですよね。

あとがきで、作者の那須正幹さんが、「彼らは平和と民主主義の申し子」と述べていました。

那須さんは、しばしば日本共産党機関紙「赤旗」に登場されます。

確かに、その通りだと思います。

あの頃は、先生たちが大体組合員で、自衛隊を悪し様に言い、「はだしのゲン」が夏休みの課題図書になったりしました。まだ30代半ばの人に空襲の記憶があった時期です。

そうして那須さんは、「いつまで戦後であり続けるのか分からない」と述べていらっしゃいます。

オウム真理教事件とほぼ同時に起きた阪神・淡路大震災を契機に、自衛隊が国民に認知され、危機管理という考え方が一般的になり、それから昭和史について日本の国益を擁護する側から見ることがかっこいいとされるようになったことを考えると、今のこどもたちは既に「平和と民主主義」が敗走する姿を見て育っているのかもしれません。

『ガキ大将行進曲』ロケ地上映会正式決定

日付:2016年8月21日(日)

時間:14時~

場所:富士川町町民会館

入場無料

会場に直接来て下ってもいいですが、このブログをご覧になった方は事前に連絡を下さったら嬉しいです。

上映会の準備を始めていきます

2016年8月21日(日)は、『ガキ大将行進曲』に思いのある方や映画の製作に携わっていた関係者が集まって、濃密な上映会となるように準備していきます。詳細については随時このブログで報告します。


『ガキ大将行進曲』の光男役の難波克弘さんにゲストとして参加していただければと思い、お声をかけました。現在アメリカ在住で、今回の上映会には参加できないのですが、今後日本へ行く予定ができましたら、その時期に上映会を実施し、参加していただければいいな~と思っています。

少年と心身の成長と経済成長と

福島市野田児童センターまつりに行って来ました。

6月12日(日)でした。

児童センターまつりは、遠い未来のように思っていました。

上映会だけ行って、その場限りの旅人に終わりたくないと「来年6月の児童センターまつりに参加したい」とセンター長に申し上げたのが、昨年11月の再訪時でした。

「シャボン玉コーナーを東京の人に担当してもらっており、前例がある」とのお返事でした。

ただ、私が担当した「靴飛ばし」コーナーは閑古鳥。

隣の的当てコーナーが、特に努力をしなくとも、常に行列ができていたのと対照的でした。

「靴飛ばし」をスタンプラリーの一環にでも位置付ければ、もっと多くの来客があったのではないかな、と思います。

 

昨年11月から7か月が経っており、こどもは大きくなっていました。

「靴飛ばし」コーナーでお客を探していたら、右斜め下に視線を感じました。

私がそちらのほうを見たところ、上映会時に「子役の顔が渋い」と発言したK君がいました。

そうして、K君が隣のコーナーで的当てをしている姿を見て、投球の力が強いことにびっくりしました。

4年生になり、急に体力が付いたのですよね。

K君が「これから野球の練習がある」とそそくさと帰って行くのを見送り、もし1年後に会ったら見違えっているだろうな、と思いました。

ずっと見ていればあまり感じないのかもしれませんが、たまに会って急にこどもが成長していると、自分が置き去りにされた感じがします。

一方、私に焼き鳥を差し出した4年生のA君。

私はA君を初対面かと思いました。

しかし、A君は昨年の上映会に来てくれており、「少年が山登りする映画を見た」と語りました。

K君のように目立った言動があったわけではなかったので、私はA君に気付いていませんでした。

ここでは、「少年」という単語選択に注目すべきでしょう。

横文字が氾濫し、感覚的な言葉が横行するこの現代で、あえて「少年」という漢語を選択したところを見ると、登場人物たちを「少年」という言葉で表すのが相応しい要素があったのでしょうか。

「少年探偵団」と言うように、「少年」という言葉は平成生まれの幼少期に対して使うのではなく、昭和生まれの幼少期に対して使うのが相応しいとも考えられます。

「少年」の成長イメージと、経済成長のイメージを重ね合わせられた、と解釈するのも考え過ぎではないような気もします。

経済成長期にたまたま自分の成長期が重なった人は、自分の成長期に思う存分自分の「少年」性を発揮できる、とも勝手に推論できますよね。