バブル世代の文化的優越感?
朝日新聞5月21日付「耕論」で、「演歌は日本人の心か?」というテーマで有識者が意見を述べていました。
朝日新聞社がインターネットで本会ブログを見て、今回の「耕論」を企画したわけではありませんよね。
『創られた「日本の心」神話』の著者である輪島裕介さんも意見を述べていましたが、それ以外に音楽評論家のスージー鈴木さんの意見が目を引きました。
鈴木さんは、私と同じ1966年生まれ。
小学校6年生の時にサザンオールスターズに出会ったそうです。
私の記憶とも重なります。
しかし、「47抜きは、西洋の音階に慣れていない日本人にとって歌いやすい」「5音音階に慣れ親しんだ人たちは付いて行けない」という意見には、違和感を抱かざるを得ませんでした。
日本の土着の5音階よりも西洋の7音階のほうが優れている、という意識がこの意見の前提にあります。
しかし、バリエーションが豊富になること以外、5音階よりも7音階のほうが優れている理由については語られていません。
私は、もの悲しいメロディーラインと、言葉で心情を説明し尽そうとする文学性とが好きで、演歌を支持しています。
日本流の洋楽は、騒々しいのと、歌詞が感覚的で軽いのと、根底に欧米崇拝があることなどから、私としては支持していません。
かつて朝鮮王朝では、偉大な中華文明を生み出した漢民族に同化することが文明化の道であると信じられていました。
7音階崇拝も、それと同じ理由であるように思えるのです。
鈴木さんが今年50歳になる感慨を語られるのであれば、少年期に受けた欧米崇拝の影響を冷静に再評価して欲しいものです。
私としては、演歌の欠点として歌詞及びその作品世界があると思います。
多くは、やくざや風俗など社会的少数派の、決して純情とは言えない中高年の恋愛感情を歌い込んでいます。
これでは、若い世代が受容するとは思えません。
演歌のメロディーラインで、童謡を作ってみてはいかがでしょうか。
例えば少年の友情をテーマにし、より日本的に個人よりも集団の価値を強調する、という作品が考えられます。
演歌というジャンルが、60~70年代の放送局ディレクターが企画したものとは別のものになる可能性があります。
演歌は日本人の心
小学校の先生が言っていました。
古臭い歌、中高年向けと思われる歌を小学生に聞かせたら、「やめてよ、演歌」と言われるそうです。
演歌が何かの象徴として偏見の目で見られていると感じました。
「演歌は日本の心」と言われます。
その一方で、洋楽を志向するJ-POPからは仲間に入れてもらえなかったと言われます。
しかし、輪島裕介『作られた「日本の心」神話-「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社、2010年)を読んでみると、そうした理解は、必ずしも史実ではないことが分かります。
演歌の起源は、明治時代・大正時代の政治風刺にあると言われますが、当時の演歌と、現在の演歌とでは別のものを指しているようです。
現在の演歌は、昭和初期に成立したレコード歌謡にその起源があるようです。
けれども、成立から少なくとも昭和30年代までのレコード歌謡には、演歌の要素はなかったようです。
現在の演歌歌手よりも一世代前のレコード歌謡歌手である藤山一郎、淡谷のり子、東海林太郎は西洋音楽を身に付けており、後年の演歌にも好意を持っていなかったということです。
昭和30年代の代表的な歌手である三橋美智也の歌にも、演歌の要素はないようです。
演歌という言葉がジャンルとして使用され始めたのは1964年。
演歌の新作がいくつも発表されるようになったのが1971年。
日本の経済成長から取り残されたようなやくざ・水商売・流しの芸人を主人公にしているから、日本的であり民衆的なのだそうです。
それも演歌の流行が続いたのは1980年代半ばまでで、到底音楽ジャンルとして定着したとは言えず、20年という流行の寿命から考えたら演歌はニューミュージックなどというのと似たり寄ったりだそうです。
私が物心付いた時期にはテレビで演歌が大量に流れていたため、演歌が日本の心であっても違和感はなかったのですが、ラジオ局やテレビ局のディレクターが仕掛けた結果として演歌が生まれたということを初めて知りました。
仕掛けの不自然さの反動で、流行が去ってからの世代には演歌の評判が悪いのかもしれません。
そうして、21世紀に入ってから、1960年代から1980年代にかけてのレコード歌謡を一括した用語が提唱されているそうです。
昭和前期・中期のレコード歌謡は「昭和歌謡」ではなくて、なぜ昭和後期のレコード歌謡だけが特別のジャンルを定立されるかは疑問の余地があるようですが、昭和後期のレコード歌謡には前期・中期とは異なる特徴があるようです。
昭和前期でも中期でもなく、昭和後期を眺めようとする本会の視点に妥当性はあると思われます。
もし一生同じ年齢でいられるなら17歳でいたい?
見たわけではありませんが、話を聞いていると新作の「仮面ライダー1号」は、高校舞台のような感じがします。
「地獄先生ぬ~べ~」のテレビドラマ版のように「今回は舞台を高校に改めまして」というようなものではないようですが、子役が出演するような作品にはしないという意思さえ感じます。
私が小学校1年生の時「少年仮面ライダー隊」が登場し、当時の私でもこれほどまでに子役で塗り固めることに違和感を持ったことを考えると、当時と今とでは社会が違うと感じます。
しかし、よく考えてみると、小学生主人公を高校生主人公に作り替えることはパロディーも含めてよくありますが、高校生主人公を小学生主人公に作り替えることはあまりありません。
「それゆけレッドビッキーズ」を高校野球物語に作り替えることは考えられますが、「ルーキーズ」を少年野球物語に作り替えることは考えにくいですよね。
「どういう青年になるのであろう」はあったとしても、「どういう少年だったのであろう」はあり得ないのでしょうか。
確かに少年時代の物語はあまり想像力を必要としませんよね。
しかし想像力を駆使するから未来の物語に魅力があるのだとすれば、高校野球物語をプロ野球物語に作り替えたくなるはずです。
あまりそういうことがないことを考えると、やはり多くの人の理想が高校時代に込められているとは考えられませんか。
私はそういう気がします。
柔らかい春の日差しを思い出す
CSホームドラマチャンネルで、「あばれはっちゃく」スペシャル「俺は男だ!あばれはっちゃく」(1982年正月)と「男三人!あばれはっちゃく」(1982年3月)が放映されました。
いずれも私が高校受験生の頃に放映されたものです。
今回、「男三人!あばれはっちゃく」を興味深く見ました。
2代目桜間長太郎(栗又厚くん)が、3代目桜間長太郎(荒木直也くん)にバトンタッチする物語です。
まず、新宿の高層ビル群を遠景に、その麓にある桜間長太郎の住む地域を映します。
火事になったら燃えてしまいそうな木造住宅群です。
この構図に、私は1988年夏季オリンピック前のソウルの写真を重ね合わせました。
高層ビルの麓に、トタン作りの住宅群があり、住宅の前の空き地にはロープが張ってあり洗濯物が吊るしてあります。空き地では、こどもたちが遊んでいます。
先進国に近付いたとは言えまだあちこちに貧しさが残っている、それがソウル…とこの写真を撮った日本人カメラマンは言いたかったのでしょうね。
1982年の東京にも、同じような風景があったことが分かりました。
しかもそれは、建築が派手で巨大になる以前の東京の風景であり、日本の庶民が生きた証として、是非次代に残したい風景であると思うのです。
そうして、物語は剣道を軸にして展開していきます。
司馬遼太郎さんが言っていました。
日本の歴史の特殊性は、島国であること、そうして武士が存在すること、この二つに規定されている、と。
日本は、古来中国文化圏に属しているとは言え、儒教の影響は限定的で、科挙は結局導入されず、代わりに尚武の伝統の下で集団・規律・秩序が重視されていきます。
日本に生まれてよかったなあ…という気持ちにさせてくれる作品、それが「あばれはっちゃく」です。
『Jポップの心象風景』(文春文庫)だったと思うのですが、著者の烏賀陽弘道さんが述べていました。
「Jポップという言葉が誕生したのが、1988年秋。世界に通用する日本音楽という意味である。Jポップはフォークソング・ニューミュージック・ジャズなど、それまであったあらゆるジャンルを網羅していったが、唯一採用されなかったジャンルがあった。演歌であった。演歌が日本土俗的であるという理由で採用されなかったのである。
Jポップは洋楽の影響を受けていなければならず、しかもどの洋楽の影響を受けているかを語れなければならなかった。1988年と言えば、バブルの絶頂期あり、“日本はアメリカに戦争に負けたが、経済で勝った”という言説がまかり通った時期である…。」
現在の日本では、「バブルに戻りたい」という人は大勢いても、「バブル以前に戻りたい」という人を見掛けないのが不思議です。
欧米人に近付くことが文明化の道であり、日本オリジナルを身に付けることは野蛮人に落ちることである、という気持ちがどこかにあるのではないでしょうか。
最近、「あばれはっちゃく」が角川つばさ文庫で刊行されましたが、萌え絵タッチであっては「あばれはっちゃく」は表現できないと考えます。
顎が細く、手足が細長い桜間長太郎は、日本固有のガキ大将を表現していません。
今回、ホームドラマチャンネルで再放送をしてもらったにしても、契約している家庭はそう多くはないでしょうから、今のこどもたちの目に触れることもほとんどないでしょうね。
地上波、できればテレビ朝日で、平日16時~17時台に再放送してもらいたいものです。
今のこどもたちに、新しさと伝統を対等に捉えてもらいたいです。
物語の最後に、初代・吉田友紀くんと2代目・栗又厚くんが、3代目・荒木直也くんを腕に乗せ、その“襲名”を祝福していました。
1982年の春休みの太陽の光は、今と比べて柔らかかったような気がします。
ひょっとしたらあれが地球温暖化以前の日差しであるのかもしれません。
NHK放送博物館を見学しました
明日から寒が戻ると言うので、思い切って行ってきました。
NHKのテレビジョンカー、登場は1937年なのですね。
1940年には国民所得が戦後の1956年水準に達していたし、都市では洋食も食べられた、というのがよく分かります。
「1974年のお茶の間風景」、リアルでいいです。
Youtubeで「明るいなかま」を検索すると、1974年の音声が出て来ますが、NHKは1974年に何かしらの転換点があったのでしょうか。
『滝山コンミューン一九七四』を読めば、当時の家庭生活の様子は分かるかもしれません。
映像ライブラリーでは、1975年に放映された「新・坊ちゃん」を見て来ました。当時私は小学校3年生です。
と、私が小学校高学年~中学生頃に活躍した俳優たちが勢揃いしていました。
この物語の最終回で、「登場人物の10年後」が放映されて、坊ちゃんは駅員になっており、生徒たちは日露戦争の最前線に送られており、山嵐は故郷・福島県の小学校の分教場で教えていたことを思い出しました。
ソ満国境・15歳の夏
今日、午前中、春日部市民文化会館で実施された、医療生協さいたま主催の上映会を見て来ました。
『ソ満国境・15歳の夏』
開始時、スクリーンに「児童向け」ではなく「少年向け」と書いてありました。
17歳でも児童福祉法の対象であり、一方でボーイソプラノを張り上げる小学生の少年少女合唱団もおり、で誰が児童で誰が少年であるかを定義ができません。
ただ、川崎で起きた中1リンチ殺害事件では、被害者に対して一貫して「少年」という呼称が使われているところを見ると、小学生以下に対しては「児童」、男子に限れば中学生・高校生に対しては「少年」が妥当であるのかもしれません。
そうして、終戦時に中学校3年生だったと言えば、私の父の一番上のお兄さんがそうなのですよね。
自宅で防空壕を掘っていて、鼻血を出して廊下で寝ているところに日本敗戦の知らせを聞いて、「日本が戦争に負けるはずがない」と怒ったという話を思い出しました。
そのお兄さんも、4年前に亡くなっています。
私は戦後20年以上経過してから生まれており、日本がかつて戦争をしていた事実は、上記のような上の世代の伝承か、博物館の展示でしか知ることはできません。
第二次世界大戦を知る世代が70代後半以上になり、一人一人いなくなり、第二次世界大戦は過去に起きた戦争の一つに過ぎなくなるのだろうな、と感じました。