昭和後期こどもの歴史研究会

平成時代の社会変化で、その直前の昭和後期こどもの歴史は忘れられています。お金にならないため、企業も投資したがりません。人間の幸福感の問題として、昭和後期のこどもの文化を、現在のこどもたちに伝えていく努力をしたいです。昭和後期のこどもの文化に幸福を感じる現在のこどもを、一人でも育てられたら嬉しいです。

映画関係のパーティーに参加

先月16ミリフィルム映写機の操作方法を教えてくださった方が、3歳の息子さんと一緒に名古屋へいらっしゃいました。名古屋で開催の映画好きが集うパーティーの主催者の一人として、地元の食材を使って料理を提供してくださいました。

僕も出席し、食事をしながら、参加者の方と交流を深め、楽しいパーティーでしたね。参加者には映画監督もいらっしゃいました。名古屋での上映会開催に向けての話し合いもしましたので、具体的に決まったら、このブログで紹介します。

ロケ地上映会は大成功

『ガキ大将行進曲』の上映会は、今まで3回実施しました。1回目は埼玉県、2回目は福島県、そして前回の記事で事務長が書いたとおり、3回目で念願の山梨県のロケ地上映が実現しました。ロケ地上映実現に向けて紆余曲折しましたが、主催団体のご尽力により開催できたことは大変感謝いたします。

 

当日は、少し旅気分を味わいたいこともあり、新幹線を使わず、中央本線経由で遠回りしたので、5時間近くかかりました。午前11時40分に、上映場所の最寄駅であるJR身延線鰍沢口駅に到着し、主催団体の代表者が車で迎えにきて下さいました。

 

富士川町町民会館へ向かうまで、映画の中で出てきた橋や秘密基地を作ったであろうと思われる場所を、車で通りました。撮影時期は1978年だと思いますが、ところどころ『ガキ大将行進曲』のゆかりの場所が残っていて良かったです。主催団体の代表者は観客が何人いらっしゃるか見当がつかないものの、50名位見えたら嬉しいとおっしゃってました。予測とおり52名でしたので、まさに計画通りでしたね。イベントを開催したものの参加数ゼロという事例をよく聞いていますので、上映が始まるまでドキドキしました。

 

昭和時代を懐かしむ方にぜひご覧いただければと思いましたが、現役の小学生が何名見にきているのかも気になりました。父と母のこども時代だった1970年代の感覚や雰囲気を親子と共有してほしいと願っているからです。小学生も数十人見にきていたのを確認しました。今のこどもたちは、16ミリ映写機は逆に新鮮に感じたかもしれませんね。

 

今回『ガキ大将行進曲』の出演者は一人も来ないと思い込んでましたが、エキストラで参加した女性が見に来てくださったのは、本会にとってサプライズで、嬉しかったです。これこそがロケ地上映の醍醐味ですね。もし次、ロケ地上映を実施する時は、難波さんや他の出演者をお呼びできたらと思ってます。

 

帰りは、身延線富士駅まで行き、その後、新幹線を使い、夜10時代に自宅に戻りました。

ロケ地上映会を開催しました

『ガキ大将行進曲』のロケ地上映会が、やっと実現しました。

昨年9月から交渉を始めたものの、どこが主催するかで難航していました。

最初、日帰りで実施するつもりでいました。

当日朝4時半に自宅を出て11時半の会場設営開始に間に合わせる、というプランです。

しかし私の親が、「過労運転になる恐れがある」「翌日は、いつもより仕事の開始が早い」と反対し、富士川町内のホテルに一泊することにしました。

甲府市内の宿は、この時期どこも満室でしたが、富士川町まで行ったら、素泊まりでも空室がありました。

昨年の福島上映時も、福島市内の宿はどこも満室で、二本松市内まで行って漸く空室を見付けたのと状況は似ています。

8月21日(日)午前10時半に主催団体の代表者が私をホテルに迎えに来てくれました。

そこから車で2~3分の富士川町町民会館に移動。

映写機材を設営し、試写していたらやたら台詞に「~じゃん」という言葉が多いのに気付きました。

この時期の子供の言葉はそうであったのか、あるいは大沢豊監督が漫画かテレビの影響で子供の言葉をステレオタイプに捉えていたのか、どちらであろうと主催団体代表者に質問したら、「これは甲州弁だ」とのことでした。

なるほど、「~じゃん」の他に「~ずら」もあります。

主催団体代表者の娘さんが経営するイタリアンレストランに席を移し、名古屋からやって来た本会代表と合流しました。

主催団体代表者は、自宅から『ガキ大将行進曲』の原作を持って来ましたが、それは私が住む市の図書館にもあり、借りてかばんの中に持っていました。

午後1時に富士川町町民会館に戻り、設営作業を再開しました。

間もなく、観客がやって来ました。

『ガキ大将行進曲』の中でエキストラをしたという女性も現れました。

富士川町市川三郷町の全小中学校に家庭数のチラシを配布し、総数52名の観客が見えました。

開会の挨拶で、難波克弘さんの個人ブログにお誘いを投稿したのだけれども、今は日本にいらっしゃらないということで「花束贈呈」は実現しなかったと述べました。

会場がどっと沸き、エキストラをしたという女性も沸いていました。

3時半に上映終了後、そのエキストラの女性に名刺を渡したのですが、子役としてエキストラをしたのではなく母親役の一人でエキストラをしたこと、光男くんたちを陣馬山競争に送り出す母親たちの中にいたこと、今も作者の故・塩沢清さんの奥さんと年賀状交換をしていることなどを聞かせてもらいました。そうして、本会の活動を、「とてもいい活動だ」と褒めて下さいました。

母親役の方が健在であることを知り、『ガキ大将行進曲』の時代はそれほど古い時代ではないと私は感じました。

難波さんが日本に見えることがあれば、主催団体代表者と再び連絡を取り、上映会をもう一度行い、「花束贈呈」を実現できればいいなと思っています。勿論、本会の希望に過ぎませんが。

帰りは、中央高速をひた走りました。

夏の終わりの日曜日の夕方は、例年大月から八王子までの区間が渋滞しており、今年も例外ではありませんでした。

新見南吉記念館に行って来ました

新見南吉作、『ごんぎつね』。

小学校4年生の国語教材として、定番中の定番ですね。

音楽教材の『とんび』も定番中の定番。

不思議と、4年生の教材には定番中の定番が集中します。

8月12日(金)、愛知県半田市にある新見南吉記念館に行って来ました。

名鉄知多半田駅前からの路線バスは本数が少なく、タクシーに乗らざるを得ませんでした。

「新見南吉記念館」と運転手に告げると、「今日、新見南吉記念館で何かあるんですか。午前中乗せたお客さんが、千葉から来て新見南吉記念館に行きましたよ」と言うのです。

教育関係者がよく来るそうです。

彼岸花が咲く季節には、駅前からシャトルバスも運行され、屋台も並ぶとか。

新見南吉記念館に入ってまず目に飛び込む標語は、「昔も今も、ごんはずっと君の友達」。

いいですね、幼い友情。

椅子に腰かけて読書をする新見南吉の等身大の銅像を横に見ながら、展示室に入ります。

新見南吉は小学校の代用教員だったのですね。

愛知県が新見南吉に発令した辞令を見て、実感が沸きました。

そうして、同僚の女教師と恋仲だったとか。

私の恩師たちも、職場結婚した人が多いですが、小学校に勤務したら普通は職場結婚になるのでしょうか。

新見南吉は、その後東京外国語学校を出て、愛知県立安城女学校の英語教師になったそうです。

戦時中の写真で、受け持ちの部活の女子生徒に囲まれた新見南吉が、幸せそうに見えました。

「疾風怒濤」の時代が輝いて見える人には幸せなのでしょう。

新見南吉からはみ出したところで、「こんなにあっという間に消える教材も珍しい」と6年生の『最後の授業』が紹介されていました。

内容の紹介は省略します。

検索で調べて下さい。

アルザス地方で使用されていた言語は、ドイツ語の方言であり、フランス語は公用語に過ぎなかったという事実が証明されてしまい、物語は嘘であることに決まってしまったのです。

作者が想像だけで書いた物語なのでしょうか。

私が通った教職課程の授業で、教授が「皆さん『最後の授業』を知らないの?わあ、世代差を感じるな」と仰っていました。

この展示を見て、世代差の問題ではなく、選挙の際のネガティブキャンペーンと同じ性質のものを感じました。

それから、新見南吉記念館を後にし、田んぼと軒の低い住宅地を通って、歩いて新見南吉の生家に向かいました。

格子戸を開けると、私の父の実家と同じように、ツンと鼻に衝く黴の匂い。

狭い梯子を下ると、半分地下の台所・風呂場・居間に出ました。

胸の高さのところに地面があり、夏草が茂っていました。

経済的に豊かで、衛生面に問題がなければ、このように自然に近い生活も悪くはないのですが、問題があったから新見南吉は長生きできなかったのですよね。

現代の、オートロックのマンションで育った人は、長生きできるでしょうか。

見学を終えてから、当てずっぽうで東に向かったら、名鉄半田口駅に出ました。

途中名古屋行きの特急に乗り換えたら、クロスシートの観光仕様であるにも関わらず、窓のカーテンが半分閉まって放ってあるなど、あまりよそ行きではないな、と感じました。

「こどもファッション-小さい人たちへの眼差し」を見て来ました

東京都庭園美術館で開催中の、「こどもファッション-小さい人たちへの眼差し」を見て来ました。

「こどもらしさは、こどもが作ったわけじゃない」というサブタイトルにも、関心を抱きました。

冒頭で、NHKテレビで紹介された、「男の子向けドレス」が登場します。

新しさを追求して現代人を驚かせようとしたわけではなく、18世紀のヨーロッパで男の子向けファッションとして実在したことが分かりました。

18世紀後半には、こども服では、可愛らしさを追求しようとしたそうなのですが、1810
年代に、こどもが大人と同じ服を纏い、「小さな大人」になった時期があるそうです。

優秀な児童文化(児童文学・玩具など)が輩出されなかったことが原因だそうです。

日本で言えば、百姓一揆や打ちこわしなどで、江戸幕府の統治が揺らぎ始めた頃です。

日本におけるこども服では、1923年に広まった男の子用の水兵服が印象的でした。

『赤い鳥』の時期です。

『コドモノクニ』の復刻版が陳列されていましたが、最も新しいものは、第二次世界大戦が始まったばかりの1942年8月号でした。

以上見て来て、ヨーロッパにおけるこども服でも、日本におけるこども服でも、それを懐かしく感じる人たちが、ほとんど存命していないのではないかと思いました。

「同窓会にするのではなく、次代に伝える」が本会の課題ですが、同窓会も開けないような遠い過去のことしか取り上げられないのが現状なのです。

16mmフィルム映写機の講習を受けました

本会は、昨年2回上映会を催し、今年も8月21日にロケ地上映会を実現しましたが、今後も定期的に開催していきます。一つ懸念事項になっているのは、本会で16㎜フィルム映写機を扱えるのは一人しかいないということです。

自分も本会の代表者でありながら映写機を操作したことがないので、8月6日に16㎜フィルム映写機の講習会を受けました。講習会の場所は、僕が住んでいる所から120キロ位という遠出ですが、普通列車に乗り継ぎ、3時間近くかかりました。特急を使うのも早く到着していいのですが、普通列車に乗り継いで車窓を眺めるのは楽しいものです。

講習会といっても、僕一人、つまりマンツーマンです。映写機も16ミリフィルムも年代物ですので慎重に取り扱わなくてはならなく緊張しました。でも、丁寧に分かりやすく教えていただいたかいもあり、映写機の操作を修得しましたので、今後の活動に活かされます。この場で、お礼申し上げます。

まだ完全には決まってませんが、名古屋でも11月~12月頃には、上映会を開催する予定です。

ズッコケ熟年三人組

2005年以来続いていた、「大人になった三人組」の完結作品です。

人気作のようで、市立図書館で貸し出し中が続いており、やっと借りることができました。

・三人は、年齢相応に年を取っている。

・三人は、流行に沿った生活様式を取り入れることが嫌いではない。

そうして最大の特徴は、

・三人を含めた旧・花山第二小学校6年1組は、卒業以来、6年生の時の人間関係を維持している。

降霊術だなんて、三人は絵に描いたような70年代の少年なんだなあ・・・と思いました。

広島東洋カープの初優勝の余韻が残っていた頃ですよね。

オカルトブームの影響を受けた70年代の少年が、80年代に青年になり、学園で新宗教に勧誘され、その最も先鋭的な部分がオウム真理教事件を起こしたのですよね。

あとがきで、作者の那須正幹さんが、「彼らは平和と民主主義の申し子」と述べていました。

那須さんは、しばしば日本共産党機関紙「赤旗」に登場されます。

確かに、その通りだと思います。

あの頃は、先生たちが大体組合員で、自衛隊を悪し様に言い、「はだしのゲン」が夏休みの課題図書になったりしました。まだ30代半ばの人に空襲の記憶があった時期です。

そうして那須さんは、「いつまで戦後であり続けるのか分からない」と述べていらっしゃいます。

オウム真理教事件とほぼ同時に起きた阪神・淡路大震災を契機に、自衛隊が国民に認知され、危機管理という考え方が一般的になり、それから昭和史について日本の国益を擁護する側から見ることがかっこいいとされるようになったことを考えると、今のこどもたちは既に「平和と民主主義」が敗走する姿を見て育っているのかもしれません。