昭和後期こどもの歴史研究会

平成時代の社会変化で、その直前の昭和後期こどもの歴史は忘れられています。お金にならないため、企業も投資したがりません。人間の幸福感の問題として、昭和後期のこどもの文化を、現在のこどもたちに伝えていく努力をしたいです。昭和後期のこどもの文化に幸福を感じる現在のこどもを、一人でも育てられたら嬉しいです。

朝日新聞よ お前さんは男女・女男を作りたいのか

6月27日付け同紙経済面に、「おもちゃもジェンダーフリー」「多様性 親世代が意識」という記事が掲載されました。

「男の子にも人形」「女の子にもプラモ」だそうです。

男の子にはお世話人形を与えるそうです。

「男の子なのに、女の子のおもちゃで遊んで」に対して「男の子も遊ぶものですよ」と打ち出すそうです。

女の子にもプラモとは何のことかと思われますが、小さくてかわいい部屋を組み立て、熊の人形を組み立てて遊ぶそうなのです。

いずれも誘導ですね。

もともと男意識・女意識が強いこどもはびくともしないと思われますが、中性的なこどもはこれで中性化を進めることになるでしょう。

1980年代に、女性解放運動のパンフレットで、「女も土木に従事しよう、エイエイオー!」と叫ぶイラストが掲載されていたのを思い出します。

教育現場で、あえて「くん」「さん」に分けて呼称してみると、「性別を間違われた」と困惑するのが、顔・名前が中性的で外見から性別の識別が困難なこどもであるのです。

男意識・女意識がびくともしないこどもには、男の子向けの人形や、女の子向けのプラモは、「君たちはこれで遊ぶことはない」と指導した方がいいと思われます。

男の子向け人形・女の子向けプラモで遊びたがるこどもについては、自分の性別に沿った遊びをするよう指導した上で、それではどうしても幸せになれない場合に最後の手段として男の子向け人形や女の子向けプラモを与えるべきなのではないでしょうか。

エミール・デュルケームの社会実験

先日新座市立野火止公民館での上映会に見えた方が、本会に対して「仕事・保障・仲間」を強調されました。

16ミリ児童映画復活運動をしていて、孤立することを危惧されたのだと思われます。

ウィキペディア「社会化」から、「社会化の規範性」を引用してみましょう。

フランスの社会学者、エミール・デュルケームが、『社会学的方法の規準』で述べていることです。

 ①  行為や思考の型は、個人に外在するだけでなく、命令と強制の力を付与されている。

 ②  自分の意思で同調するときには、強制を感じることはない。

 ③  抵抗しようとした途端に、強制は事実となって現れる。

 ④  例えば服装の慣習を無視したら、人々の嘲笑・反感を招く。刑罰に近い効果もある。

 ⑤  産業経営者が、前世紀的な工程や方法で労働させることを禁ずるものはないが、敢えてそれをしたら、破産を招くだけである。

 ⑥  首尾よく突破できても、闘争は避けられない。

 ⑦  最終的に勝ったとしても、反対や抵抗により拘束力は感じられる。

かつて16ミリ児童映画を配給していた埼玉映画文化協会は、「16ミリ児童映画はちょっと…」と言って、「ちょっと・・・」の先については言葉を濁しました。

明らかに⑤を心配しています。

⑤を回避するために、②の道を選んでいます。

どの団体も②を選んでいることを憂慮し、本会は③を選んでいます。

選んでいる以上、工夫して⑥を通過し、⑦を実現することを目指しています。

塩田武士『罪の声』講談社、2016年を読んで

グリコ・森永事件の脅迫電話に登場した男児が誰であるかを追うフィクションです。

 青酸入りのチョコレートがスーパーマーケットに撒かれたことで、我が子が被害者になることを恐れた主婦たちが、テレビの情報番組を頼りにするようになったそうです。

 浜井浩一『犯罪不安社会-誰もが「不審者」?-』光文社、2006年では、21  世紀に入ってからの「こどもの安全大合唱」の原因は、テレビの情報番組にあると断言しています。 

やはり「現在」は、1980年代半ばに用意されていたのでしょうか。

それにしても、なぜ主婦たちがテレビの情報番組を信頼するのかは不明です。

怪談と同じで、できるだけ視聴者を不安にさせた情報番組が視聴率競争で「勝ち」であることは分かっていると思うのに。

どこかで聴いたことがある曲

先日、私の勤務校で、担任に連絡があり中休みに3年生の教室に行きました。

雨が降っていて、こどもたちは電子オルガンで遊んでおり、それとは知らない私は電子オルガンのコードに足を引っ掛けてしまいました。

「何か弾いてよ」とこどもたちにせがまれました。

たまたま頭に浮かんだので、即興で1972年版「天才バカボン」のOPの冒頭を演奏しました。

次に、1979年の「はっちゃく音頭」の冒頭を演奏してみました。

こんな古い歌こどもが白けるかも、と一旦演奏の手を止めたら、活発な男の子がくるりと振り向いて「それ、ドラクエ?」と聞いて来たのです。

いい線行っているではありませんか。

ドラゴンクエスト」を作画した鳥山明が、「ドクタースランプ」で有名になったのは、1980年のことであると記憶しています。

この男の子が「天才バカボン」「はっちゃく音頭」を知っているはずはないのですが、何らかのこども向けサブカルチャーであることには気付いたのでした。

こどもの魂は永遠であると思います。

童心ロマン主義

ある牧師さんが、附属小学校でもキリスト教を教えたことがあるそうです。

小学生に教える時は、実物を示すことを重視し、花の実物を見せたそうです。

そう言えばありました。

「熱血あばれはっちゃく」のOPで、3代目桜間長太郎・荒木直也くんがサッカーゴールで、ボールの代わりに飛んで来た花を受け止めています。

この時期の大人は、こどもをいい意味での差別、つまり特別視をしていたと思われます。

『現代児童文学の語るもの』にもある通り、キリスト教の児童観の影響がある可能性を指摘できます。

キリスト教による近代的な児童観では、こどもがセックスに関わることは厳禁です。

ただ、こうした特別視は、幼児なら何も感じないかもしれませんが、普段から同世代の仲間と群れているような小学校高学年だと、「よしてよ、恥ずかしい」と感じるかもしれません。

この21世紀では、「よしてよ、恥ずかしい」と言う側が主導権を取っていると思いませんか。

人工衛星飛んだ

脚本家の三谷幸喜さんが、朝日新聞に連載中のコラムで、ご自身が小学校4年生の時のこどもの遊びについて述べていらっしゃいました。

・「人工衛星」~10人ほどで円陣を組み、手を繋いでぐるぐる回る。「人工衛星人工衛星、飛んだ!」と叫んで、一斉に手を離す。回転していた勢いで、参加者たちは広範囲に飛ばされる。飛ばされた位置から、他の参加者のいる場所でジャンプし、相手の足に自分の足を引っ掛けて転ばしたら勝ち。

・「スリル」~左右に揺れるブランコの下に横たわり、ひたすら恐怖と戦う。

1971年ですよね。

まだ、町医者と言ったら「天才バカボン」に出て来るような藪医者が跋扈していた時代だと思われます。

写真は庶民にもようやっとカラーフィルムが手に届くようになった頃。

米ソ核軍事力増強競争のさ中で、こどもの間にも宇宙開発の話題が身近であったと思われます。

舞台劇「子供の事情」は、子役を使った演劇なら、是非見に行きたかったところです。

現在の子役が演じたら、自分の役を演じること自体が歴史学習になりますよね。

環境問題

6月7日(水)、NHKの「ガッテン」で、1980年夏の小学校の体育館での日焼け大会の景色と、2015年夏の海水浴場の景色とが比較されました。

2015年夏の海水浴場では、人々がTシャツを着て水遊びに興じていました。

2014年夏、私が小学校で水泳の補助の仕事をした時に、肩からタオルを被せられ、海水パンツの上からハーフパンツを穿かされたことを思い出しました。

最初は盗撮対策かと思いましたが、私を盗撮して喜ぶ人もいないでしょうし、意図はよく分からないままでした。

1988年6月7日に、NHKテレビ「モーニングワイド」でオゾンホール問題が紹介され、「紫外線は皮膚癌を誘発させかねない」との通念が広まって、1989年頃には小麦色ブームを終結させたそうです。

1988年から1989年にかけて、他に何が起きたでしょうか。

Jポップの発生、マンションでのオートロックの実用化、宮崎勤の事件…。

日本社会が欧米化し、日本の慣習も、犯罪も、まるで欧米のようになるとまことしやかに囁かれた時代です。

そうして、オゾンホール。

共通するのは、環境の変化です。

真実であるかどうかは分かりませんが、環境が過酷になり、防備をしないと環境から攻撃されかねない、といったものです。

のちの個人情報保護法もこうした流れと同一線上にあると思いませんか。

美白の現代人はビタミンDが欠乏して骨が脆くなりかねないそうです。

人間にとって、太陽はもともと恩恵。

太陽と友達になれず、太陽を嫌うような文明は不自然です。

欧米化の総本山であるアメリカで、「地球温暖化には根拠がない」とする政権が誕生するのは、変革を予感させますよね。