山中恒『現代子ども文化考-「子ども」に寄り添って-』辺境社2017年を読んで
山中さんは、最近公立小学校に呼ばれて、4・5・6年生250人を前にして4・5時間目の授業をしろと言われたそうです。
こどもたちを前に、山中さんがこどもの頃自分をいじめた奴に死んで祟ってやろうと思ったというお話をされたそうです。
すると、男の子たちから一斉に握手を求められたそうです。
私の勤務校でも先日1年生に対して安全教育があり、ALSOKの社員が出前授業をしていました。
終わると、ALSOKの社員はこどもたちからハイタッチの嵐になっていました。
ALSOKの社員は、給食も1年4組で食べ、こどもたちが体によじ登って来ていました。
大抵の公立小学校で、4時間目が12時25分頃に終わり、5時間目が午後1時40分頃に始まることを考えると、山中さんも4・5・6年のどこかのクラスでこどもたちと給食を共にしたのではないでしょうか。
山中さんは、こどもの頃のことをよく覚えていらっしゃいますが、私もこどもの頃のことをよく覚えています。
多くのこどもが、私と意思疎通してくれます。
こどもと意思疎通できる人とは、こどもの頃の思い出を今起きていることのように語ることができる人だと考えています。
それがこども視線と言えます。
小学校教員の場合は、大人視線でこどもを統率しなければなりませんが、児童文学(「読み物」でもいい)作家の場合は、こども視線が創作の原動力になると思います。
山中さんは、戦後間もない時期に、童話会に入りたくて早稲田大学に入学しています。
そこで、古田足日さんと出会っています。
この時期の早稲田大学童話会に、私のこども時代に活躍した児童文学(読み物)作家が集結していたと考えると、感無量です。
そうして、古田さんはつい最近亡くなってしまいましたが、山中さんは未だに健在で、現役の小学校4・5・6年生を前にしてガキ大将になっているのですよね。
東日本大震災・安倍内閣・キラキラネームに言及している辺りは、山中さんも現役の言論人なんだな、と感じました。
インターネット上では、テレビドラマ「あばれはっちゃく」が何かにつけて「今のこどもには通用しない」カビの生えた作品として蔑まれていますが、その原作者が健在も健在なのです。
「あばれはっちゃく」に出て来る子役たちと同い年の私など、まだ雛のようなものなのではないでしょうか。
山中さんは、一冊を通じて、すっかり自分を洗脳した国民学校教育を怨んでいらっしゃいます。
昭和一桁にとって、「大日本帝国は現実、戦後民主主義は理想」だから左翼を支持する人が多い、しかしゆとり世代にとって「戦後民主主義は現実、大日本帝国は理想」だから自民党・安倍内閣を支持する人が多いと言われます。
「ズッコケ三人組」の作者である那須正幹さんが、「ズッコケ中年三人組」を断筆する理由として、「70年代をこどもとして過ごした三人は、平和と民主主義の申し子。三人が老人になる頃に、平和と民主主義がどうなっているか分からない」ことを挙げています。
大正時代の童心主義が大きなうねりにならなかったのは、一つには中間層が誕生したばかりで脆弱だったことがありますが、もう一つには大日本帝国と童心主義の相性が悪かったことが考えられます。
大日本帝国にとって、こどもは戦力だったのですよね。
こどもはロマンではなく現実だったのです。
それに対して、戦後民主主義と童心主義の相性は良かったと考えられます。
女性が一生の間に産むこどもの数が減ったこともあり、「夢多きこども時代」を与えることができたと考えられます。
しかし、「戦争をしない国」は「国民を守れない国」の側面を示し、女性が一生の間に産むこどもの数の更なる減少は、こどもが犯罪被害者になることを極端に恐れる社会を作ってしまいました。
戦後民主主義の理想と少子化の理想がうまく釣り合ったのが昭和後期の状況であったと考えられます。
この状況を理想としてこれからのこどもたちに伝えて行くのは、決して間違ったことではないと考えます。
山中さんが言及しているこどもの戦時歌謡は、私も知っている歌ばかりです。
昭和後期の私のこども時代に、戦中世代の親から教わっていたのです。
私でも伝えられます。
朝日新聞よ お前さんは男女・女男を作りたいのか
6月27日付け同紙経済面に、「おもちゃもジェンダーフリー」「多様性 親世代が意識」という記事が掲載されました。
「男の子にも人形」「女の子にもプラモ」だそうです。
男の子にはお世話人形を与えるそうです。
「男の子なのに、女の子のおもちゃで遊んで」に対して「男の子も遊ぶものですよ」と打ち出すそうです。
女の子にもプラモとは何のことかと思われますが、小さくてかわいい部屋を組み立て、熊の人形を組み立てて遊ぶそうなのです。
いずれも誘導ですね。
もともと男意識・女意識が強いこどもはびくともしないと思われますが、中性的なこどもはこれで中性化を進めることになるでしょう。
1980年代に、女性解放運動のパンフレットで、「女も土木に従事しよう、エイエイオー!」と叫ぶイラストが掲載されていたのを思い出します。
教育現場で、あえて「くん」「さん」に分けて呼称してみると、「性別を間違われた」と困惑するのが、顔・名前が中性的で外見から性別の識別が困難なこどもであるのです。
男意識・女意識がびくともしないこどもには、男の子向けの人形や、女の子向けのプラモは、「君たちはこれで遊ぶことはない」と指導した方がいいと思われます。
男の子向け人形・女の子向けプラモで遊びたがるこどもについては、自分の性別に沿った遊びをするよう指導した上で、それではどうしても幸せになれない場合に最後の手段として男の子向け人形や女の子向けプラモを与えるべきなのではないでしょうか。
エミール・デュルケームの社会実験
先日新座市立野火止公民館での上映会に見えた方が、本会に対して「仕事・保障・仲間」を強調されました。
16ミリ児童映画復活運動をしていて、孤立することを危惧されたのだと思われます。
ウィキペディア「社会化」から、「社会化の規範性」を引用してみましょう。
フランスの社会学者、エミール・デュルケームが、『社会学的方法の規準』で述べていることです。
① 行為や思考の型は、個人に外在するだけでなく、命令と強制の力を付与されている。
② 自分の意思で同調するときには、強制を感じることはない。
③ 抵抗しようとした途端に、強制は事実となって現れる。
④ 例えば服装の慣習を無視したら、人々の嘲笑・反感を招く。刑罰に近い効果もある。
⑤ 産業経営者が、前世紀的な工程や方法で労働させることを禁ずるものはないが、敢えてそれをしたら、破産を招くだけである。
⑥ 首尾よく突破できても、闘争は避けられない。
⑦ 最終的に勝ったとしても、反対や抵抗により拘束力は感じられる。
かつて16ミリ児童映画を配給していた埼玉映画文化協会は、「16ミリ児童映画はちょっと…」と言って、「ちょっと・・・」の先については言葉を濁しました。
明らかに⑤を心配しています。
⑤を回避するために、②の道を選んでいます。
どの団体も②を選んでいることを憂慮し、本会は③を選んでいます。
選んでいる以上、工夫して⑥を通過し、⑦を実現することを目指しています。
塩田武士『罪の声』講談社、2016年を読んで
グリコ・森永事件の脅迫電話に登場した男児が誰であるかを追うフィクションです。
青酸入りのチョコレートがスーパーマーケットに撒かれたことで、我が子が被害者になることを恐れた主婦たちが、テレビの情報番組を頼りにするようになったそうです。
浜井浩一『犯罪不安社会-誰もが「不審者」?-』光文社、2006年では、21 世紀に入ってからの「こどもの安全大合唱」の原因は、テレビの情報番組にあると断言しています。
やはり「現在」は、1980年代半ばに用意されていたのでしょうか。
それにしても、なぜ主婦たちがテレビの情報番組を信頼するのかは不明です。
怪談と同じで、できるだけ視聴者を不安にさせた情報番組が視聴率競争で「勝ち」であることは分かっていると思うのに。
どこかで聴いたことがある曲
先日、私の勤務校で、担任に連絡があり中休みに3年生の教室に行きました。
雨が降っていて、こどもたちは電子オルガンで遊んでおり、それとは知らない私は電子オルガンのコードに足を引っ掛けてしまいました。
「何か弾いてよ」とこどもたちにせがまれました。
たまたま頭に浮かんだので、即興で1972年版「天才バカボン」のOPの冒頭を演奏しました。
次に、1979年の「はっちゃく音頭」の冒頭を演奏してみました。
こんな古い歌こどもが白けるかも、と一旦演奏の手を止めたら、活発な男の子がくるりと振り向いて「それ、ドラクエ?」と聞いて来たのです。
いい線行っているではありませんか。
「ドラゴンクエスト」を作画した鳥山明が、「ドクタースランプ」で有名になったのは、1980年のことであると記憶しています。
この男の子が「天才バカボン」「はっちゃく音頭」を知っているはずはないのですが、何らかのこども向けサブカルチャーであることには気付いたのでした。
こどもの魂は永遠であると思います。
童心ロマン主義
ある牧師さんが、附属小学校でもキリスト教を教えたことがあるそうです。
小学生に教える時は、実物を示すことを重視し、花の実物を見せたそうです。
そう言えばありました。
「熱血あばれはっちゃく」のOPで、3代目桜間長太郎・荒木直也くんがサッカーゴールで、ボールの代わりに飛んで来た花を受け止めています。
この時期の大人は、こどもをいい意味での差別、つまり特別視をしていたと思われます。
『現代児童文学の語るもの』にもある通り、キリスト教の児童観の影響がある可能性を指摘できます。
キリスト教による近代的な児童観では、こどもがセックスに関わることは厳禁です。
ただ、こうした特別視は、幼児なら何も感じないかもしれませんが、普段から同世代の仲間と群れているような小学校高学年だと、「よしてよ、恥ずかしい」と感じるかもしれません。
この21世紀では、「よしてよ、恥ずかしい」と言う側が主導権を取っていると思いませんか。
人工衛星飛んだ
脚本家の三谷幸喜さんが、朝日新聞に連載中のコラムで、ご自身が小学校4年生の時のこどもの遊びについて述べていらっしゃいました。
・「人工衛星」~10人ほどで円陣を組み、手を繋いでぐるぐる回る。「人工衛星、人工衛星、飛んだ!」と叫んで、一斉に手を離す。回転していた勢いで、参加者たちは広範囲に飛ばされる。飛ばされた位置から、他の参加者のいる場所でジャンプし、相手の足に自分の足を引っ掛けて転ばしたら勝ち。
・「スリル」~左右に揺れるブランコの下に横たわり、ひたすら恐怖と戦う。
1971年ですよね。
まだ、町医者と言ったら「天才バカボン」に出て来るような藪医者が跋扈していた時代だと思われます。
写真は庶民にもようやっとカラーフィルムが手に届くようになった頃。
米ソ核軍事力増強競争のさ中で、こどもの間にも宇宙開発の話題が身近であったと思われます。
舞台劇「子供の事情」は、子役を使った演劇なら、是非見に行きたかったところです。
現在の子役が演じたら、自分の役を演じること自体が歴史学習になりますよね。