昭和後期こどもの歴史研究会

平成時代の社会変化で、その直前の昭和後期こどもの歴史は忘れられています。お金にならないため、企業も投資したがりません。人間の幸福感の問題として、昭和後期のこどもの文化を、現在のこどもたちに伝えていく努力をしたいです。昭和後期のこどもの文化に幸福を感じる現在のこどもを、一人でも育てられたら嬉しいです。

現代っ子が性に目覚めていることを隠すために

埼玉県男女共同参画センターで、角田聡美他『ブルマーの社会史-女子体育へのまなざし』青弓社2005年と山本雄二『ブルマーの謎-<女子の身体>と戦後日本』青弓社2016年という2冊の本を手にしました。

借りる時に多少司書の目が気になる本ではあるのですが、勉強になりそうなので借りて読んでみることにしました。

1960年代半ばにブルマーが普及する過程も、1990年代を通してブルマーが消滅する過程も、学校にも衣料品メーカーにもほとんど資料が残っていないそうですね。

少ない資料の中で、著者の分析力には敬服しました。

本が売れなくなるといけませんから、詳しい内容は書きませんが、私がかねて警告して来たことを教育関係者が無視して来たことを感じました。

「こどもの実態」です。

1984年のTBSドラマ「うちの子に限って」では、下校中の小学生の男の子が校門を出るなり学校にあかんべ―をして、女の子と手を繋いで繁華街に遊びに行く様を描いていたのです。

バブル期の女子高生たちが、テレクラブームを通じて軽い売春に馴染んで行くことが予想付かなかったのかな、と思います。

学校の外で性と馴染んだこどもに対して、学校関係者としては「危険な大人と関わらない」よう指導することくらいしかできないのですよね。

私はむしろ、こどもの中から性文化を嫌う子を発掘して、そういう子をリーダーに据え、性と馴染んだこどもを追い込んでいくことをお奨めします。

学校関係者のみならず、教育学者さえもが学校の中の出来事にしか関心を示さない中、「こどもの実態」論はあまりにも少ないです。

今回読んだ2冊を先行研究とし、この2冊では未解明な点をいずれ提起したいと思います。

因みに1993年当時発足したばかりのJリーグのユニフォームの丈はそれほど長くなく、1996年に顕著に長くなったとありました。

NBAJリーグが丈を長くしたのではなく、その逆です。

何らかの外部要因で、NBAJリーグはユニフォームの丈を長くしています。

愛玩は室内で

私の勤務校の5年生が、近視の眼鏡を掛け始めました。

野球少年で、決してガリ勉をするような子ではありません。

1980年代に、裸眼視力が1.0未満の小学生は、20%前後で推移していたそうですが、2007年以降この10年間は30%前後で推移しているそうです。

電車の中でも、駅名表示を見る時に目を細くする小学生が目立ちます。

勉強のし過ぎが原因でないのなら、ゲームのし過ぎが原因だろうか、と一般的には考えられます。

しかしそれであるならば、ゲームがこどもの遊びに定着してから30年が経過するわけですから、「眼鏡を掛けた小学生は遊びが好きな子」というイメージが定着していてもおかしくありません。

昨夜、TBSで「生命38億年スペシャル―人間とは何だ」で興味深い説が提唱されていました。

中国のこどもは90%が近視であり、大学の入学式では新入生の全員が近視の眼鏡を掛けていた、というケースも報告されているそうです。

近視は眼球の奥行きが長くなる病気である、という捉え方をして、鍼で眼球の血行を促すという治療も行われているそうです。

近視の原因として考えられているのが、日光浴の不足。

中国では大気汚染が深刻で、こどもを外に出さない傾向があるそうです。

日本でも、オゾンホールが言われるようになってから、日光浴を忌避する傾向がありますよね。

野球少年であっても、小麦色が良しとされていた時代ほどには、外に出ていない可能性があります。

「美白」な小学生が近視の眼鏡を掛けていたら、勉強をしているにせよ、ゲームをしているにせよ、居場所は常に温かい室内であるように見えます。

合宿に参加して

本会代表執筆
 
甥っ子とよく遊ぶのですが、障子を破ったり、ベランダの外へホースの水をかけたり、いたずらばかりしています。本会の代表を務めているとおり、こどもは好きですが、本音ではどう接していいのか悩んでいました。もし教員になった時、学級崩壊を起こすのでは?と心配もしていた時、本会の事務長が書いた前の記事の京都の合宿に参加しました。
 
それぞれの先生方の実践記録のレポートは、成功したことも失敗したことも事実を隠すことなく書いてあったので、こどもとどう向き合っていいのか大変参考になりましたね。今度、甥っ子が遊びに来た時、こどもの気持ちにもっと寄り添っていきたいと思いいます。
 
合宿では、相談もできる新しい人間関係を築くことでき、様々なことで視野が広がりました。合宿に参加してなかったら、井の中の蛙だったかもしれません。

教員志願者の合宿

10日から12日まで、京都で臨時的採用教員の合宿がありました。

実践報告をしたところ、昔から私のことを知っている人が、私の成長を感じると言って下さり、恐縮しているところです。

そうして今回は、本会代表が初めて一泊しました。

これを契機に、新しい人間関係が開けるといいと思います。

あったのになかったかのよう

早稲田大学演劇博物館で開催中の、「テレビの見る夢 − 大テレビドラマ博覧会」を見て来ました。

1970年代~80年代前半を、テレビドラマ黄金期と言うそうですね。

同感です。

「熱中時代」を写真3枚で取り上げていました。

2000年代までの展示を、会場の部屋を10年単位で均等に5分割していましたが、東日本大震災以降の2010年代の展示に1部屋を割り当てていました。

東日本大震災がテレビドラマの価値観転換の契機になったということですね。

ただ、入場料無料ということもあってか、あまり掘り下げた展示を見ることはできませんでした。

NHKアーカイブスも、展示が思うように進まないそうですが、できるだけ多く、できるだけ早く、昭和後期の映像作品がお蔵入り状態から脱することを願っています。

山中恒『現代子ども文化考-「子ども」に寄り添って-』辺境社2017年を読んで

山中さんは、最近公立小学校に呼ばれて、4・5・6年生250人を前にして4・5時間目の授業をしろと言われたそうです。

こどもたちを前に、山中さんがこどもの頃自分をいじめた奴に死んで祟ってやろうと思ったというお話をされたそうです。

すると、男の子たちから一斉に握手を求められたそうです。

私の勤務校でも先日1年生に対して安全教育があり、ALSOKの社員が出前授業をしていました。

終わると、ALSOKの社員はこどもたちからハイタッチの嵐になっていました。

ALSOKの社員は、給食も1年4組で食べ、こどもたちが体によじ登って来ていました。

大抵の公立小学校で、4時間目が12時25分頃に終わり、5時間目が午後1時40分頃に始まることを考えると、山中さんも4・5・6年のどこかのクラスでこどもたちと給食を共にしたのではないでしょうか。

山中さんは、こどもの頃のことをよく覚えていらっしゃいますが、私もこどもの頃のことをよく覚えています。

多くのこどもが、私と意思疎通してくれます。

こどもと意思疎通できる人とは、こどもの頃の思い出を今起きていることのように語ることができる人だと考えています。

それがこども視線と言えます。

小学校教員の場合は、大人視線でこどもを統率しなければなりませんが、児童文学(「読み物」でもいい)作家の場合は、こども視線が創作の原動力になると思います。

山中さんは、戦後間もない時期に、童話会に入りたくて早稲田大学に入学しています。

そこで、古田足日さんと出会っています。

この時期の早稲田大学童話会に、私のこども時代に活躍した児童文学(読み物)作家が集結していたと考えると、感無量です。

そうして、古田さんはつい最近亡くなってしまいましたが、山中さんは未だに健在で、現役の小学校4・5・6年生を前にしてガキ大将になっているのですよね。

東日本大震災安倍内閣・キラキラネームに言及している辺りは、山中さんも現役の言論人なんだな、と感じました。

インターネット上では、テレビドラマ「あばれはっちゃく」が何かにつけて「今のこどもには通用しない」カビの生えた作品として蔑まれていますが、その原作者が健在も健在なのです。

あばれはっちゃく」に出て来る子役たちと同い年の私など、まだ雛のようなものなのではないでしょうか。

山中さんは、一冊を通じて、すっかり自分を洗脳した国民学校教育を怨んでいらっしゃいます。

昭和一桁にとって、「大日本帝国は現実、戦後民主主義は理想」だから左翼を支持する人が多い、しかしゆとり世代にとって「戦後民主主義は現実、大日本帝国は理想」だから自民党安倍内閣を支持する人が多いと言われます。

ズッコケ三人組」の作者である那須正幹さんが、「ズッコケ中年三人組」を断筆する理由として、「70年代をこどもとして過ごした三人は、平和と民主主義の申し子。三人が老人になる頃に、平和と民主主義がどうなっているか分からない」ことを挙げています。

大正時代の童心主義が大きなうねりにならなかったのは、一つには中間層が誕生したばかりで脆弱だったことがありますが、もう一つには大日本帝国と童心主義の相性が悪かったことが考えられます。

大日本帝国にとって、こどもは戦力だったのですよね。

こどもはロマンではなく現実だったのです。

それに対して、戦後民主主義と童心主義の相性は良かったと考えられます。

女性が一生の間に産むこどもの数が減ったこともあり、「夢多きこども時代」を与えることができたと考えられます。

しかし、「戦争をしない国」は「国民を守れない国」の側面を示し、女性が一生の間に産むこどもの数の更なる減少は、こどもが犯罪被害者になることを極端に恐れる社会を作ってしまいました。

戦後民主主義の理想と少子化の理想がうまく釣り合ったのが昭和後期の状況であったと考えられます。

この状況を理想としてこれからのこどもたちに伝えて行くのは、決して間違ったことではないと考えます。

山中さんが言及しているこどもの戦時歌謡は、私も知っている歌ばかりです。

昭和後期の私のこども時代に、戦中世代の親から教わっていたのです。

私でも伝えられます。

朝日新聞よ お前さんは男女・女男を作りたいのか

6月27日付け同紙経済面に、「おもちゃもジェンダーフリー」「多様性 親世代が意識」という記事が掲載されました。

「男の子にも人形」「女の子にもプラモ」だそうです。

男の子にはお世話人形を与えるそうです。

「男の子なのに、女の子のおもちゃで遊んで」に対して「男の子も遊ぶものですよ」と打ち出すそうです。

女の子にもプラモとは何のことかと思われますが、小さくてかわいい部屋を組み立て、熊の人形を組み立てて遊ぶそうなのです。

いずれも誘導ですね。

もともと男意識・女意識が強いこどもはびくともしないと思われますが、中性的なこどもはこれで中性化を進めることになるでしょう。

1980年代に、女性解放運動のパンフレットで、「女も土木に従事しよう、エイエイオー!」と叫ぶイラストが掲載されていたのを思い出します。

教育現場で、あえて「くん」「さん」に分けて呼称してみると、「性別を間違われた」と困惑するのが、顔・名前が中性的で外見から性別の識別が困難なこどもであるのです。

男意識・女意識がびくともしないこどもには、男の子向けの人形や、女の子向けのプラモは、「君たちはこれで遊ぶことはない」と指導した方がいいと思われます。

男の子向け人形・女の子向けプラモで遊びたがるこどもについては、自分の性別に沿った遊びをするよう指導した上で、それではどうしても幸せになれない場合に最後の手段として男の子向け人形や女の子向けプラモを与えるべきなのではないでしょうか。